21 / 138

第21話 アクアリウム③

 知らなかった。  知らなかった。  奏多があんな奴だったなんて。  和樹は悔しくて涙さえ出そうだった。さも理解しているようなふりをして、その実、何もわかってないんだ。変な風に思われたくないってなんだよ。  ふと、さっき二人で見ていた水槽を思い出した。美しい熱帯魚も、闊達に泳ぐマグロも、あの水槽の中ではあんなに生き生きしているように見えても、ひとたび水から出されたら生きていけない。透明な、でも、分厚いアクリルガラスが彼らと自分たちの間には存在していて、お互いの世界は分断されている。俺は奏多と同じ世界にいて理解し合っていると信じていたけれど、本当は、お互いの間には透明な分厚い壁があったのか。俺と涼矢は、自由に泳いでいたつもりだけれど、所詮水の中でしか生きていけないのか。それどころか、ウツボみたいに、ひっそりと岩陰に隠れているべきなのか。  結局二人はそのまま退園してしまった。「すごい顔してる。」ゲートを出てからも、和樹は無意識に足早に歩いていた。涼矢にそう指摘され、歩をゆるめた。 「わかった。」 「ん?」 「俺がわかってなかったことがわかった。涼矢の言っていたことが正しかった。」 「部長が悪いんじゃないんだよ。あれが常識で、ふつうなんだ。」 「でも……あんな言い方……。」  涼矢は遊歩道を見つけると、その道端にあるベンチに和樹を誘導した。「座ろう。」穏やかな、優しい声だった。和樹をなだめるような。二人はベンチに座った。涼矢は穏やかな口調のままで話し出した。「俺は、和樹と違って、最初から、ゲイだから。」  和樹は驚いて涼矢を見る。現に今こんな関係になっているのに、驚くことでもないのだが、改めてそう聞くと意外な気がした。初デートの時にその質問をした時にははっきりと答えなかった涼矢が、今になってそんなことを言い出す意図は何だろうと訝しく思った。  また、元からゲイだと言われて、和樹は少しだけがっかりした。和樹が涼矢に慕われて初めて同性に恋情を抱いたように、涼矢にとっても、和樹が初めての、かつ、唯一の「惚れた男」なのだという錯覚をしていたのを、裏切られたような気がしたのだ。 「こういう思いをすることは、いっぱいあった。ずっと隠してきたから、面と向かって何か言われたのはさっきが初めてだけどね。それでも『ホモなんて気持ち悪い』なんて言葉は、日常茶飯事で耳にするし、そのたびに自分の居場所はないんだなと思い知らされてきたよ。初恋の相手も男だった。その人はもう、この世にいないけど。」  そう言うと涼矢は反応を窺うように和樹を見た。突然の話の展開に和樹は声を失っていた。涼矢は和樹が落ち着くのを待ち、しばらく間をおいてから、再び語りだした。「聞いて楽しい話じゃないけど……聞いてほしい。」 「あ、ああ、うん。」そう答えるのが精いっぱいだった。 「彼は俺が小学生の時の家庭教師だった。おふくろの伝手で来てもらっていた大学生で、優しくて、勉強を教えるのもうまくて、頼れるお兄さんって感じだった。俺、小さい頃、喘息持ちでね。それで水泳教室にも行かされたんだけど……まぁ、あまり丈夫なほうじゃなかった。今の俺見たら想像できないかもしれないけど、小学生の間は体もみんなより一回り小さかった。小学生でも高学年にもなってくると、早い奴は声変わりしたり、毛が生えたりするだろ? 俺は、そういう成長も遅かったわけ。それがすごいコンプレックスで。でも、うちは親が留守がちで、特に父親と顔を会わせる時間なんかほとんどなくて、相談できるような男の人ってのが周りにいなかったんだよね。そんな中で、唯一、そういう話ができるのがその先生だった。今思うとくだらない悩みだったんだけど、先生は茶化したりしないで、いつも真剣に話を聞いてくれた。……ある時、俺、彼に言ったんだ。先生は俺の秘密を知ってるけど、俺は先生の秘密を知らないのは不公平だって。それで、おもしろ半分に『好きな人はいるの』とか、『その人は美人か』とか聞いたんだ。俺もガキだったから、しつこく聞いてさ。彼も面倒になったのか、こども相手だと思って気が緩んだのか、好きな人は男で、きれいと言うより、カッコいい人だよ、って答えてくれた。」  和樹は淡々と話す涼矢の横顔を見た。涼矢の初恋。それは決して聞いて気分の良いテーマではなかったけれど、そんな風に自分の話をする涼矢は初めてだったから、一言も聞き漏らすまいと一生懸命に耳を傾けた。 「それを聞いて、俺は、その相手に嫉妬している自分に気が付いた。男が好きなら、俺を好きになればいいのにって思った。結局、それだけで終わった初恋だよ。彼に好きだとも言えないうちに、すべてが終わっていた。」

ともだちにシェアしよう!