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第30話

征治はかつてないほど満ち足りた気分だった。 あれから何が変わったというわけではない。お互いに何も言葉にはしないし、先に進んだわけでもない。 でも、陽向とただ視線を交わすだけでお互いに気持ちが触れ合っているのがわかるのだ。見つめ合うだけでお互いが想い合っていることがいることが分かるのだ。今はそれで十分だと思った。 勿論、どんどん大人の男の体になりつつある征治には性的欲求も強くある。だが、まだ子供のような陽向を見ていると、そういうものを求めてはいけないと思うのだ。 実際に陽向と触れ合うのはまだずっと先でいい。俺は待てる。そう自分に言い聞かせる。俺は陽向が大切なのだ。一人で処理するときは随分妄想させてもらっているけど、それくらいは許してもらおう。 そんな幸せな気分の征治にも困っていることがあった。 弟の勝のことだ。近所でもすっかり荒くれ者の評判が定着した勝が、やたらと征治に絡むのだ。征治には思い当たる節もなく、落ち着いて話し合おうと思うのだが、勝はとにかく突っかかり、全く埒があかない。 両親と祖父は、中学受験に失敗し、公立中学でもあまり良い成績が取れず、生活態度が悪いせいで教師からの評価も良くない勝が、相変わらず成績の良い優等生である征治に対して激しい劣等感を持っているためではないかと考えた。 とうとう父親がこれでは征治の成績にも差し障ると、征治に学校の寮に入るように言い渡した。 征治の通う歴史ある名門校は遠方から進学する者も多く、寮が用意されている。征治は電車を使い1時間ほどかけて通っていたが、勝が落ち着くまで寮で暮らすことになった。その方が、征治の為にも勝の為にもいいのではないかということになったのだ。 しかし、母は寂しがり、週末には帰って来るように言った。征治としては陽向と離れるのは嫌だったから、寮に入ることを進んでは受け入れがたかったが、家族の為と思い我儘は飲み込んだ。その代り、週末は必ず帰って来ようと決める。 入寮する直前の週末、小太郎の散歩に出かけた征治と陽向の間には不思議な空気が流れていた。 その日は風が強く、河原の土手ではなく木々がこんもりと繁っている傍で休憩した。いくらか風が防げるようだ。木の枝に長めに伸ばした小太郎のリードを引っ掛ける。 陽向が何か言いたそうに、ちらちらとこちらを見ている。 「ねえ、陽向。俺がいなくなると寂しい?」 「寂しい」 「ちゃんと毎週末こっちに帰ってくる。これからも一緒に小太郎の散歩はできるよ」 陽向の目を見ながら言う。 「それでも、寂しい」 切なそうな顔をする陽向を見たら、勝手に体が動いた。 そのほっそりした体を両腕でそっと抱きしめる。陽向もおずおずと手を伸ばし征治の背中に腕を回した。そして、征治の胸にその小さな頭をうずめて小さく「征治さん」と呟いた。 その小さな呟きに、胸がぎゅうっとなる。 たまらなくなって征治は陽向の耳元で囁いた。 「陽向、好きだ」 陽向の両手がキュッと征治のシャツを握る。そして、征治の胸に顔をうずめたまま 「僕も好き。征治さんが好き」 と言った。 二人は長い間そのまま、ただ抱き合っていた。 二人の足元で小太郎が動かない二人を不思議そうに見上げ、木々の葉が風に吹かれて大きく揺れ、ざああ、ざああと音を立てていた。

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