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第72話

「10年以上経って、自分のせいで誰かがひどい傷を負っていたと知ったら、しかもそれが今でもトラウマとなっていると分かったら、山瀬さんならどうしますか?俺は、彼に謝りたいんです。でも、それは俺の自己満足で彼にとってはもう思い出したくもないことかもしれないですよね」 「じゃあ、聞くけど、征治はなんで謝りたいの?」 「俺と再会する直前の彼は、吉沢さんの説得を聞き入れて、声を出すための精神的、身体的トレーニングを始めようとしていたらしいんです。それを、やっぱりやめると言い出した。執筆活動も連載が終わったらやめると言っているそうです。それが、彼にとっていいことだとは思えないんです。 彼には慶田盛の人間を罵ってでも、もう過去には決着をつけて先に進んで欲しいんです。確かに彼には何の非も無いのに、たくさんの不幸にみまわれた。 でも、彼には才能があって本を出すまでになったんです。山瀬さんのように彼の本が人の心を動かすまでになったんです。心の傷を治して声を取り戻して、堂々とこれからの人生を歩んで行って欲しいんです。そのためにも俺は彼に謝りたい。父や弟にも謝罪させたい」 山瀬は真面目な顔で頷き、こう言った。 「自分が傷つけた人間に謝ることは自己満足かと言ったな?簡単なことじゃないか。それは征治が一番よくわかるんじゃないのか?親父さんの事件の時、お前は沢山の人間に傷つけられたんじゃないのか。彼らが謝ってきたら、お前はどう感じるんだ?」 征治はしばらく考えた。 「・・・誠意、ですかね?相手の言葉が本心からのものだと感じられれば、誠意が感じられれば、受け入れて許すことが出来ると思います。その逆だと・・・」 顔を顰める征治を見て、山瀬は 「きっと、そういうことだよ」 と、言った。 その言葉を聞き、征治はほっとする。 「実は、すでに彼に謝罪をしようと、コンタクトを試みていて・・・」 公園に来てくれるように書いた手紙を篠田に託したこと、もう2週連続ですっぽかされていることを報告する。そして、彼が来てくれるまで、何度でも通うつもりでいることも。 「俺が、人ってこんなに簡単に心変わりするものなんだ、近しい人間のことも裏切れるんだと思ったのは彼のことが最初でした。もっともそれは単なる誤解で、まだガキだった俺はそのことに気づきませんでした。 その後、親父の事件があって、家族は崩壊して自分では親しいと思っていた人たちが蜘蛛の子を散らすように俺の周りからいなくなって。もう俺は人を信用するのが嫌になっていたんです。裏切られたと傷つきたくなかったんでしょうね。 もしかしたら、彼も他人との言葉のコミュニケーションを絶って自分を守ってきたのかもしれません。でも俺と再会したことで、気持ちが伝わらない恐怖がまた彼を支配し始めてしまったんだとしたら・・・。 だから、俺は絶対になんとかしてやりたいんです。俺が愚かだっただけだ、君は何も悪くなんてなかったんだって言ってやりたいんです」 「そうか。征治の気持ちが彼にちゃんと伝わるといいな」 山瀬は優しい目をして言った。 「征治、お前やっぱり変わったよ。もう幸福なんて糞くらえって思ってないな。純粋に彼の幸せを願っている」 山瀬さんの言う通り、人間は自分や周りの人の幸福を追求していく生き物なのかもしれないが、俺の場合は償いの意味もある。 「ところでそんな様子じゃ、このところお前ろくに休みも取れてないんじゃないのか?大丈夫なのか?」 多少の疲れなんて、陽向の受けた苦痛に比べたらなんでもない。 無理はするなよと気遣われ、その後はしばらく社内や仕事の話になった。そろそろお開きかなと思った頃、突然山瀬が聞いた。 「なあ征治、お前、彼女とかいないのか?」 ずいぶん突飛な質問だった。 「いませんよ?もう長い間」 「だよな?俺が知ってるのは学生の頃の一人だけだし。だけど、お前女にもてるだろう? なんで彼女作ったりしないんだ?」 「んー、必要なかったからじゃないですかね。いや、違うな・・・そこまで心が開ける人に出会わなかった・・・というか俺が誰にも心を開いていなかったから当然ですよね。でも、恋愛って勝手にどうしようもなく惹かれてしまうものじゃないですか。まさに、心が奪われるというか。そういう相手に最近は出会ってないです」 「ふーん。じゃあ、ずっと前にはどうしようもなく惹かれて心奪われる相手がいたんだな」 少しにやにやしながら征治の顔を覗き込む山瀬に、顔を顰めながら誤魔化す。 「今は風見陽向を何とかしてやらないと。彼が立ち直ってくれてからでいいです、俺の恋愛は」

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