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<第8章> 第77話
あの人はどうかしている。
もう3週連続ですっぽかしている僕に会うために、この日曜日もあのベンチに座り続けているんだから。
あの手紙が届いてから最初の日曜日。僕はやっぱり噴水前の広場に行くことは出来なかった。
理由は・・・自分でもよくわからない。ただ、とても勇気がでなかったのだ。あの人が一体、何を話そうとしているのか全くわからないし、会って僕が普通にしていられる自信も無かった。
それでも手紙に書いてあった2時から6時の間はそわそわと落ち着かず、何度も窓から噴水広場の方を見てしまった。さすがにここからでは、視力のいい僕でもはっきりと人の顔までは識別できない。でも、ずっと同じベンチに座り続けている人がいるのは、わかった。あれが、あの人なんだろうか。
6時半頃、その人が立ちあがって駅に向かって歩き出したのを見ると、体から力が抜けた。
あすなろ出版の篠田さんには、メールであの手紙の事を問い合わせた。彼からの返信には、ユニコルノの松平さんからどうしても渡してほしいと白い封筒を預かったので、転送しましたがなにか問題でもあったでしょうか、勿論風見さんの個人情報は漏らしていませんとあった。
あの人があの公園を指定してきたのは、僕と偶然会った場所だからというだけの様で、ちょっとホッとした。
次の水曜日あたりにはもう日曜日の事が気になって、ネットで双眼鏡を注文した僕もどうかしている。
そして、もし日曜日が雨だったらどうしようか考えているのだからどうしようもない。雨の日にいると書かれていた池の横の東屋 は当然屋根があり、この窓からは屋根の一部が見えるだけで、中にいる人までは見えないのだ。
日曜日が来ると、僕は午前中から全く集中できなくて、仕事を放りだした。
今週もやっぱりあの人は来るのだろうか?
あの人がそこまでして、僕に話したいことってなんだろう?小太郎が死んでから、まともに話したことなんて一度も無いのに。
ユニコルノとの仕事の事?
でも、あの手紙の宛名は秦野青嵐ではなくて『風見陽向』になっていたし、差出人も『征治』となっていた。もしかしたら、昔の知り合いだとわかってその縁から話をすすめようとしているのだろうか?
それとも、かつて突然紙切れ一枚残して逃げ出したことを、責められるのだろうか?
2時少し前に、男性が先週と同じベンチに座ったのが見えた。僕は届いたばかりの双眼鏡を手に取る。今更ながら、見ない方がいいんじゃないかと躊躇したが、それよりも確認したいという欲求の方が勝 って、両目でグラスを覗き込む。
急に人物や物がどアップになって視界を占領する。どれがあの男性の座っているベンチだ?一つの空いたベンチを捉え、順に隣を見ていく。
3つ目にあの人の姿を見つけ、その瞬間心臓がドキンと跳ねた。あの人はゆっくりと周りを見回している。僕の事を捜しているのだろうか?やがて、腕時計を確認したあの人は鞄から本を取り出し読み始めた。
あの人は昔から本が好きだったな。幼い頃は、僕と勝君にたくさん読み聞かせをしてくれたし、僕が自分で少し難しい本も読めるようになると、自分の部屋の本棚や大きな書庫から色々と貸し出してくれた。土曜日になるといつも本を携えて使用人の離れの僕の部屋へやってきて・・・
駄目だ。これが怖かったんじゃないか。
思い出したって仕方がない、ずいぶん昔の楽しかった頃の記憶。
僕は慌てて、双眼鏡を机に置く。
でも結局、その日もあの人が6時半に公園を立ち去るまで、僕は何度となく双眼鏡をのぞいてしまったのだった。
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