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第80話

更に近づくと、あの人がはっとした様子で顔を上げ、こちらを見た。 彼は黙って立ちあがり、僕が東屋の中に入り、傘をたたむのを見ている。 向いあって、しばらくはどちらも身じろぎもできず静かに見つめ合った。 瞬時に何年分も時間が遡る。2階の征治さんの部屋と庭にいる僕が窓ガラス越しに見つめ合っていたあの時に。 あの時と違うのは二人の距離。お互いに手を伸ばせば届いてしまうこの距離に、僕はしばし呼吸をするのさえ忘れる。 ああ、征治さん。征治さんだ。 変な感傷に浸らないように、事前に何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、整った顔立ちと涼しげな目を見たら、一気に昔の記憶が溢れだしてきてしまった。 僕は征治さんのこの目が好きだったな。いつもはきりっとしている二重の目が優しく笑うと少し目尻が下がるんだ。僕の名前を呼ぶときはいつもそういう目で見てくれたんだ・・・あの日が来るまでは。 そこで我にかえる。 「陽向。あ・・・陽向って呼んでもいいのかな?」 遠慮がちに聞かれ、僕は頷いた。 ああ、これは再会してから風見陽向に対して初めて掛けられた声だ。もう一度声をかけてほしいと(こいねが)い、何年も待ち続けていた頃の自分を思い出す。 「今日は来てくれて、ありがとう」 彼はそう言って笑おうとするけど、あまりうまくいかなかったようだ。 僕も緊張と4回もすっぽかした後ろめたさで、微妙な態度しかとれない。 僕はショルダーバッグからタブレットを取り出し、征治さんに差し出した。座るように促す彼に従い、少し離れたところに座る。自分用にノートパソコンを取り出す手が少し震えてしまっているのに気が付いた。 暫く無言で見つめ合ったあと、征治さんは 「もしかして、体調が良くない?具合が悪ければ日を改めてもいいんだけど・・・」 と言った。何を言っているのだろう? 分からず戸惑っていると、彼は自分の顔の前で両手を使って四角を作った。 あ、マスクの事か。これは病気でもなんでもなく、ただの僕の防御壁だ。僕は首を横に振る。 彼はほっとした表情をすると、居ずまいを正した。 「こんなところに呼び出して、申し訳ない。どうしても、陽向に会って話したいことがあったんだ」 征治さんのあまりに真剣な面持ちに、僕は少し緊張する。 「陽向に会って、どうしても謝りたかった。それから、もし、君が同意してくれるならお願いしたいことも」 謝りたいこと? お願い? 見当もつかなくて、僕はまたうろたえる。

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