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第85話

「森本弁護士事務所の若先生を覚えているかな。実は祖父が亡くなった時に君に少し信託財産を遺していてね。祖父は陽向のことを3人目の孫だと思っていたんだ。親父の養育が二十歳までだったから、安心して大学に行けるようにと考えていたみたいだよ。故人の遺志だからどうか受け取ってやって欲しい。若先生に連絡を取れば色々手続きを手伝ってもらえるはずだから」 そう言うと、名刺をタブレットの上に載せ、二つ揃えて僕のほうに差し出した。 「父と勝の件、一度ゆっくり考えてみて。きっとその方が君のためにもいいと思うんだ。陽向がこれから前を向いて歩いていくためにも、いろいろな感情を精算して暗い過去とは決別した方がいいんじゃないかと思うんだよ」 僕のため・・・過去の清算と決別・・・。 「今日は雨の中どうもありがとう。俺は、もう少しここでゆっくりしていくから」 先に帰れと促されて、僕は立ち上がる。 もし僕が、やっぱり旦那様と勝君に会えないと思ったら、もう征治さんとはこれっきりで・・・二度と会うことはないということか。一緒に立ち上がった征治さんを見ながら思う。 ぺこりとお辞儀をして、傘を手に東屋を出ようとしたところで征治さんが感慨深げに言った。 「陽向・・・大きく・・・素敵になったね。小っちゃかった陽向もとても可愛かったけど、まるで蝶が羽化したみたいだ。少しだけマスクを外して顔を見せてくれない?」 僕はカッと顔面が熱くなるのを感じて、首を横に振った。 「ふふっ、恥ずかしがり屋なところは変わってないね。いいよ、無理しないで」 征治さんは優しい声でそう言うと、あとは黙って僕を見送った。 僕は人気のない公園の中を歩きながら、今日あったことを考える。 何時間か前に東屋に向かっていたときは、こんな展開になるなんて想像もしていなかった。本当にあの人はただ僕に謝罪するためだけにここへ来てたんだ。 なんでだろう?真実を知って良心の呵責に耐えられなくなった? でも、別に征治さんが悪いことをしていたわけではない。 吉沢さんに説得されたのか? 吉沢さんの僕への執着を考えるとあり得ると思えたが、それだけで雨の日もカンカン照りの日も、ここで僕が現れる確証も無いのに待ち続けたというのは、ちょっと解せない。 執筆をやめると言ったから篠田さんが困って頼んだ? でも、僕の本はたいして売れているわけでもないから、そんな損失にはならないだろうし・・・・。 もしかして征治さんは、怯えたうさぎのごとく巣穴から出られなくなった僕を、元に戻さなきゃと考えたのだろうか? 『陽向がこれから前を向いて歩いていくためにも、いろいろな感情を精算して暗い過去とは決別した方がいいんじゃないかと思うんだよ』 『陽向が過去に決着をつけられたら、早く忘れられるようにもう二度と姿を見せないようにするよ』 あれらの言葉の意味は・・・どういうことなんだろう?

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