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第88話
ランニングをするとき、イヤホンからの音楽を頭の中で一緒に歌うという人や、頭の中を「無」にするという人もいるけれど、僕の場合は小説のプロットを考えたり、副業の段取りを考えたりすることが多い。
今朝は、吉沢さんへの今後の接し方を考える。
吉沢さんは征治さんのいう通り、本当に僕のことを心配してくれたのだとは思う。僕が子供のように引きこもり、声を出す治療はやめますなんて言ったものだから、なんとかしなきゃと思ったのは本当だろう。
でも、僕が本名をさらすのを嫌がっているのを知っていて、僕に恨まれるかもしれないのにリスクを冒したのは、いつまでも過去のことに触れさせない僕に焦れていたのかもしれない。
征治さんとは一度?もしかしたら二度以上会っていて、大雑把な僕と征治さんの関係はもう聞いて知っているのだろう。でもきっと征治さんは僕たちの恋の話や勝君の嫉妬、そして僕の両親の死因などは話していないだろうし、今後も話したりしないはずだ。
だけど、吉沢さんは何か感じているのかもしれない。僕が征治さんに再会したことで引きこもり、自分が何度ドアを叩いても出てこなかったのに、征治さんの呼び出しに応じて僕が自分からドアを開けたのを知っているのだから。
征治さんが僕に対して大きな影響力を持っていることをどう捉えたのだろう。
嫉妬を抱かせないように注意しなければ。
そう簡単に同性同士の恋愛を関連づけるとは思えないけど、それはストレートの考え方かもしれない。僕の観察では吉沢さんはたぶんゲイだ。吉沢さんの友人であるあすなろ出版の社長もそれは承知しているようで、会話の端々でそれが読み取れるのだ。
僕は嫉妬が人をどんなに愚かな行動に駆り立てるのか、目の当たりにしてきたのだから同じ轍(テツ)を踏んではいけない。
かと言って、僕はあの幻のように儚かった征治さんとの恋を誰にも話すつもりはない。あれは僕だけの大切な思い出だ。ガラスケースに入れて誰にも触れさせないで心の奥にしまっておきたい。
あんなにどきどきすることも、会えなくて恋しいと思うことも、抱きしめられて時間が止まってしまえばいいのになんて陳腐なせりふが浮かんでくることも、もうきっとない。そんな想いも全部ガラスケースにしまって、ときどきこっそり一人で覗くだけにしたいのだ。
僕はルールを決めた。
◎今回のことは自分からは何も話さない。
◎もし聞かれれば、僕と慶田盛家(征治さんを含む)の間にかつて大きな誤解があったが、今度の再会でそれが解けたと話す。
◎誤解していた内容や、それ以外の過去についても一切話さない。そのことで吉沢さんが不安がるようなら、僕と吉沢さんの関係にそれらは全く必要のないことだからと言う。
◎今後、征治さんや場合によっては勝君や旦那様に会うことになったら、それは隠さずに会うという事実だけ伝える。
◎僕と征治さんとの仲を疑うようなそぶりが見えたら、より積極的に僕の方から親愛の情を見せて安心してもらう。
あくまで僕の頭の中の整理で、僕の立ち方を確認しただけだけど、すっきりとした気持ちになった。機嫌よくビルの7階まで駆け上がり、ランニングの汗をシャワーで流すと爽快な気分にさえなった。
コタの写真に話しかける。
「征治さんに会いに行って良かった。征治さんはやっぱり誠実で素敵な人だったよ。おまけになんだか大人の魅力も備わってて、かっこよくなってた」
思いついて、手のひらサイズの小さな写真立てに手を伸ばす。裏板の留め金を外して中の写真を取り出した。
いつもは折り畳んでコタの顔だけを枠のなかに見せているそれを広げると、コタの両側に座っている子供のころの僕と征治さんの姿が現れた。二人とも満面の笑みでコタに両側から抱きついている。たぶん、僕が5年生で征治さんが中1ぐらい?
こんな風にこの写真を穏やかな気持ちで見られる日が来るなんて。本当に会いに行って良かった。そして、征治さん。何度もすっぽかしたのに諦めずに僕に会いに来てくれてありがとう。
写真を元に戻すと、仕事の遅れを取り戻さなきゃと机に向かう。まずは、篠田さんに謝ろうとメールソフトを開いた。
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