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第89話

土曜日の3時に会場近くの駅で吉沢さんと待ち合わせた。 正直、仕事絡み以外で外に出てきて人と会うなんて、僕にとってはものすごくイレギュラーな行動だけど、引き籠って吉沢さんのメールを無視し続けたり、治療の約束を反故にしたことのお詫びの気持ちもあって、僕はここにいる。 少し早く着いた僕は、いつものようにマスクとストールと、今日は伊達メガネも掛けて守りを固め、駅の改札から吐き出されてくる人の波を見ていた。 さっきから頭に浮かんでくるのは、これから見る有名写真家のことではなく、明日会う約束をしている征治さんのこと。いや、考えなければいけないのは征治さんのことではなく、征治さんに何を聞くかということだ。 本音を言うと、やっぱり旦那様や勝君には会いたくない。なんだか少し怖いし、僕は征治さんに本当のことを知ってもらえただけで十分で、別に今更二人に謝罪してほしいなんて思っていないのだ。でも、この前の征治さんの様子ではきっとそれでは征治さんの気が収まらないのかなと思う。 それに、2度とも征治さんが立ち会ってくれるのなら、いつも威圧的だった旦那様や僕を振り回し続けた勝君と対峙するのもあまり怖くないかも。征治さんの広い背中の後ろに半分隠れる自分の姿を想像して、笑ってしまう。もう僕は「ちびすけ」ではなく、以前のような体格差は無いのに。 不意にポンと肩を叩かれびっくりして振り向くと吉沢さんが立っていた。 「あ、驚かせてごめんね。声をかけたんだけど、聞こえなかったみたいだから」 気にしないでという風に僕は首を振り、二人で会場に向かって歩き始めた。 写真展はなかなかよかった。サバンナの地平線から日が昇ってくる写真が僕は一番気に入った。じっくり時間をかけて鑑賞して会場を後にしたとき、吉沢さんは一緒に夕飯を食べないかと誘ってきた。 もしかしたら征治さんと会った時のことや明日のことを聞きたいのかも知れない。でも僕としてはその話題は避けたかった。それに、僕は人と外で食事をするのが苦手だ。 『すいません、仕事が溜まっちゃってて。今日は、これで帰ります。誘っていただいて有難うございました』 明らかに残念そうな顔をする吉沢さんに僕はこう追加する。 『改めて治療の相談をさせてください。また連絡入れますね』 やっと吉沢さんは笑顔になり、じゃあ仕事頑張ってと言って帰っていった。 吉沢さんってこんな人だったっけ?いつも、もっと大人の余裕があったと思うんだけど。でも、それはきっと僕がメールを無視したりして心配を掛けたからいけないんだろう。僕が元通りになれば、吉沢さんもいつも通りになるはずだ。

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