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第92話
翌週はメールで吉沢さんと治療について確認のやり取りをした。僕が引き籠る前もまだ具体的なスケジュールが決まっていたわけではないが、心療内科と音声外来を紹介してもらうことになっていた。
ここにきて、僕は問題に気が付いた。
元々は吉沢さんの働いている病院の心療内科にかかる予定だった。問題というのは、僕の治療を担当するのは心療内科の医師だとしても、吉沢さんに治療内容が伝わるのではないかということ。
もちろん、医師には守秘義務があって、患者の情報を外部に洩らせないことは知っている。でも、臨床心理士である吉沢さんは、外部に当たるのだろうか?関わることが出来る位置にいるのではないのだろうか?
吉沢さんの仕事をよく理解していない僕にはわからなかった。こんなに長い間お世話になっておきながら、まだそんなことも把握していない僕はどれだけ他人に興味を持てずにいたのだと我ながら呆れる。
でも、元から吉沢さんは、僕の治療に積極的に関わろうという姿勢を見せていて、以前の僕はそれもよしとしていたのだ。
もしかしたら治療の過程で過去のことを色々話さなければならなくても、それを乗り越えなければ声が出るようにならないなら、吉沢さんに知られてもいいと思っていたはずなのに、今はそれを嫌だと思う僕がいる。
なぜだろう。吉沢さんが征治さんと会ってしまったから?僕の過去の恋の対象である生身の征治さんを知ってしまったから、吉沢さんがいらない嫉妬をするかもしれないと恐れているのだろうか。
僕は悶々と悩んだ挙句、今後治療は積極的に受けるけれど、その内容を吉沢さんにも知られたくないとメールで伝えた。吉沢さんは怒っただろうか。でも、そうしなければ、洗いざらい医師に話すことができなければ、きっと治療の効果は得られない。
そこはわかってもらおう、と決めた。
梅雨らしく、しとしとと降り続く雨は日曜日になっても止まなかった。
今日も早くから来ていた僕は誰もいない公園で征治さんが現れるのを待つ。待ち遠しい気持ちと、今日色々話を聞いたら、二人でこうやって会うことはもうないのだと寂しく思う気持ちが入り混じっている。
「やあ、陽向。連日の雨で湿気がひどいね」
と言いながら現れた征治さんは言葉とは裏腹に相変わらずの爽やかさだ。傘を畳むとき、ふわっと柑橘系のなかに少しグリーンノートを感じさせる香りが届いた。あ、先週もこの香りをかいだと思い出す。
今日はさらに打ち解けて、僕の知りたかったことを色々聞けた。
『屋敷は市の施設になったんですよね?コタのお墓はどうなったんですか?』
「市に譲り渡す前に骨壺は掘り起こして、お寺に頼んで松平の墓に入れさせてもらった。今は祖父と母が小太郎を可愛がってくれているんじゃないかな」
その言葉におじいさんとおばさんがコタの頭を撫でてくれている図が浮かぶ。よかった、コタは今寂しくないね。
そして、征治さんも僕のことを訊ねてくる。
「陽向は慶田盛の家を出てからどこにいて、どうやって暮らしてきたの?ここに来る前は群馬にいたんだっけ?」
群馬の話は吉沢さんに聞いたんだろうな。
『慶田盛家を出てからの1年半ぐらいはあちこちを転々として・・・とても荒んだ生活をしていて人に言えないようなこともあったので、話したくありません。
群馬の工場では結構長く働いていましたが、会社が吸収合併されて工場が閉鎖され、そこで働いていたものは神奈川県の奥地の工場に移りました。そこにも何年かいましたが、本を出すことになって、吉沢さんがこっちで経理関係の副業も見つけてくれたので、東京に来ました』
「そう。吉沢さんは本当によく陽向をサポートしてくれるんだね。陽向のそばに彼が居てくれてよかった。いい人に出会えてよかったね」
自分でもそう感じているのに、征治さんに言われるとなんだかひりひりするような痛みを感じるのは何故だろう。
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