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第93話
「秦野青嵐っていうペンネームはどうやってつけたの?何か由来があるの?」
『秦野(ハタノ)は・・・地名です。神奈川に住んでいたとき、近くに秦野市(ハダノ市)っていうところがあって、ある川の上流の方の河原が公園みたいになってて・・・故郷の河原の雰囲気に似ていたから』
いつも征治さんと小太郎と散歩に行ったあの河原だ。昔のことは忘れようとしていたはずなのに、一度その場所を知ってしまったら、休みの度に訪れてしまうほどしっくりきてしまったのだ。
しばらく僕の意識は二つの河原の間を漂ってしまう。
故郷の河原で、幼い僕の幸せ探しごっこに根気よく付き合ってくれた征治さん。両親が死んで時々激しい心細さに震えそうになると、そんなときに限って「陽向を独りぼっちになんかしないよ」と優しく囁きかけてくれた。
征治さんへの気持ちが恋だと気づき始めたころ。並んで寝ころんだ手が触れてしまって慌てて引っこめたら小指を絡められて、ドキドキしながら見つめ合った。あの時の征治さんの照れくさそうでいて熱い眼差しと、包まれていた草の匂いまで鮮明に思い出す。
似ているようでやっぱり違う秦野の河原で、小太郎に似た雲を探して何時間もつぶしたっけ。猛烈な孤独を感じて、このまま河原の土に溶けてしまいたいと思ったこともあったな。小説を書くようになって秦野青嵐という人格を前に出し、風見陽向はこの河原の雑草のようにひっそりと生きていこうと思っていたのに・・・また僕のことを「陽向」と呼ぶ人が現れるなんて。
どれぐらいそうしていたのだろう。ふと征治さんの視線を感じて、何?という風に首をかしげる。
「いや、今日は髪型が違うんだなと思って」
本当はなるべく顔を隠したいのだけれど、今日は後ろで一つに纏めていた。
『梅雨の湿気でくせ毛が広がっちゃって』
「え、陽向ってくせ毛だったの。てっきりパーマだと思ってた。俺はやっぱり陽向のこと何にも知らなかったんだね・・・」
そういって少し寂しそうな顔をする。僕だって伸ばしてみて初めて自分がこんなに髪にくせがあるって知ったんだよ。
「でも、そうやって纏めるのもとても似合ってるよ。陽向は頭の形も顔の輪郭もとてもきれいだから。それにその方が良く目が見える」
自分の顔がかあっと火照るのを感じる。
「本当は顔もよく見たいけど、きっとそのマスクも陽向にとっては意味があるんだろうね。首のストールも、首の傷を隠すためなのかな。・・・ねえ、陽向。君はあの時、どう・・・
いや・・・ごめん、何でもない」
征治さんが視線を落とし、頭を振った。そして、誤魔化すように明るい声を出して言った。
「それにしても、よく降るね。そのおかげで公園の紫陽花がとても奇麗だけど。うちの庭にも紫陽花がたくさん咲いている一角があったね。俺はぽってりした普通の紫陽花も好きだけど、ガクアジサイも好きだったなあ。ここには無いのかな?」
池の淵の公園の柵に沿ってガクアジサイがたくさん植えられているところがある。僕は公園の外周をランニングをするとき、いつも楽しんでいるから場所もよく知っている。ここからでも見えるかもしれない。
征治さんに教えてあげようと、立ち上がってその方角を指さそうとして、ハッとした。
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