94 / 276
第94話
たった今、公園沿いの道を、急に傘を翻して立ち去っていく人の姿が見えたのだ。
あの傘には見覚えがある。
濃紺で縁に濃淡で幾何学模様が並んでいるそのデザインは特に奇抜なものというわけではないから、もちろん他にも持っている人はたくさんいるのかもしれない。でも・・・。
僕の様子がおかしいと思ったのか、征治さんも立ち上がって僕の隣に立つ。
「陽向、どうしたの?」
僕の視線の先と、僕の顔を心配そうに覗き込む。
『僕と、今日ここで会うことを誰かに話しましたか?』
「いや、誰にも言ってないよ。正確に言うと、僕が陽向と会っていることを知っているのは吉沢さんと社長の山瀬と勝の三人だけだ。でも、三人とも会っている場所を話したことはないし、今日会っていることも言っていないよ」
じゃあ、やっぱり・・・胸に不安が湧きおこる。
「陽向、何かトラブル?大丈夫?」
『大丈夫です。きっと僕の考えすぎです』
そう伝え、目だけで笑おうと思った僕の顔を征治さんはじっと見つめてくる。まるで、僕の不安を見透かそうとするように視線を外さない。僕が視線を合わせているのが苦しくなってきたころ
「わかった」
と静かに言った。
その後は、僕がおじさんや勝君と会ってもいいと言ったので、まず勝君と会うための相談をした。征治さんは勝君を東京まで来させるといい、会う場所はどこがいいか僕に聞いた。
人に聞かれたくない話も出るだろうし、静かなところがいいと思うが、基本的に外に出ない僕はあまり情報を持っていない。
「個室のある料理屋とか?」
そう尋ねる征治さんに首を振る。
『人と食事をするのが苦手です。僕は会話するとき、両手が塞がってしまうので』
なるほど、というように征治さんが頷く。本当は他にも理由があるが、それは言わなかった。そこでふと思いついた。
『以前、山瀬さんと会った月野珈琲店の個室はどうでしょう?』
「ああ、いいかもしれないね。俺が予約しておくよ」
それから征治さんは僕にお互い使い捨てのフリーアドレスを取得することを提案した。以前、僕が征治さんのアドレスを受け取るのを拒否したからだろう。
「勝や親父に会う時の待ち合わせなんかで必要になるかもしれない。全部終わったら、お互い消去すれば心配ないだろう?」
全部終わったら・・・僕と征治さんの繋がりは切れるのだ。
僕は最初からそのつもりだったじゃないか。だからこそ、差し出された名刺も受け取らなかったんじゃないか。
なのに、この胸に感じる寂しさのようなものはなんだろう?
ちょっとセンチメンタルになっているだけだ。しっかりしろと自分に言い聞かせた。
征治さんと別れてから、僕は急に先ほどの現実を思い出した。
さっきの傘。
あれは吉沢さんのものだと思う。先日の写真展の時に見たから記憶は新しい。
何故吉沢さんが、あの時間、あそこにいたのか。
吉沢さんの家はこの近くではない。そして僕は今日征治さんに会うことも、会う場所も吉沢さんに話していない。隠すつもりはなかったけれど、そんな話をする機会がなかったからだ。
吉沢さんが僕の家に予告もなく現れたのは、あの朝一度きりだ。今までは、ちゃんと事前に確認があった。
今日、僕の家にやってきて留守だと分かり、近所を探してみたとか?で、偶然公園にいる僕を見つけたとか?
でも、そうなら何故慌てて逃げるように立ち去ったんだ?
胸にもやもやしたものが湧いてくるが、全くの別人の可能性もあると自分に言い聞かせた。
今、部屋に戻ったらドアの前で待っていたりするのかと思ったが、そこには誰もいなかった。
ともだちにシェアしよう!