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第103話

「痛くはない?ずい分、切れているけど」 僕の唇にワセリンを塗ってくれながら征治さんが聞く。 散々泣いたあと、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、僕の顔を見つめる征治さんの顔を間近でぼんやりと見返す。 さっきとは全く別の感情が僕の心を支配し始めていた。こうやって僕のことを心配してくれる征治さんとの別れが迫っている。 「マスク、近くのコンビニで買ってこようか?」 そう言う征治さんにカバンの中から予備のマスクを取り出して見せ、顔につけた。唇がとても熱いのは切れたところが炎症を起こし始めているのか、それとも征治さんの指で触れられたからか。 「陽向、俺たち親子の謝罪を受けてくれてありがとう。かえって辛いことを思い出させてしまったかもしれない。でも、これは決して俺たちが楽になる為にしたことじゃないって分かってほしい。 今すぐには無理かもしれないけど、ずっと陽向の胸にあったわだかまりが少しづつでも溶け出してほしいと思っているんだ。 俺たちはそれぞれに、陽向を辛い目にあわせて、あんなに明るくて無邪気だった陽向を壊してしまった。 でも、これからはきっといい方向にいく。陽向には才能があるし、陽向の書くものを楽しみにしている人たちがいる。陽向の周りには支えてくれる人たちもいる。 俺たちを恨み続けたままでいい。でも、もう後ろを振り返らないで、名前の通り太陽に向かって歩いて行って欲しいんだ」 切々と訴える征治さんを見ながら思う。 征治さんが僕のためを思って色々してくれてるって、もうずっと前から分かっていた。僕は征治さんを恨んだりしてないよ。これからだってそうだ。 「それから、陽向、これは覚えておいて。俺と勝は、離れていてもずっと君の味方でいるよ。どんな時だって独りぼっちだなんて思わないで。もし何か困ったことがあれば必ず力になるから」 気持ちのこもった言葉を聞いて胸が熱くなる。 そのあと征治さんに言われて、お互いのフリーアドレスを消去した。家まで車で送ろうかという申し出を断ると、じゃあ駅まで歩いて送ると征治さんは言った。 本当は、ここから一人で帰れるけど、少しでも征治さんとの時間を引き延ばしたくて一緒に駅まで行ってもらうことにした。 黙って二人で並んで歩きながら、昔一緒に小太郎の散歩に行ったときのことを思い出す。あの頃ずっと上を見上げていなければいけなかった征治さんの横顔がすぐ傍にあるのが不思議な感じがする。 やがて、駅舎が見えてきて僕の心は落ち着きを無くし始めた。 征治さん、本当にお別れしなきゃ駄目なの?征治さんとの繋がりが切れてしまうのが嫌だ。寂しい。時々でいいから会ったりできないの? とうとう、僕の足は駅の少し手前で止まってしまう。気付いた征治さんも立ち止まる。 征治さん。 征治さん、僕は・・・ 「陽向。俺は秦野青嵐の本が好きだよ。どれも、陽向の優しさが溢れている。これからも青嵐の本が出るのを楽しみにしているよ。 秦野青嵐の活躍も祈っているけど、それ以上に風見陽向の幸せも願っているよ。いつかきっと、声だって取り戻せる」 そういって右手を差し出した。 これはお別れの挨拶?そんなの嫌だ。 右手を差し出せずにいる僕に、征治さんは一歩近づき、だらりと落ちたままの僕の右手をすくい取って、ぎゅっと握った。 「陽向、幸せになって」 慈愛に満ちた瞳で見つめられ、胸が締め付けられる。 最後にもう一度強く握られた後、征治さんの手は離れていってしまった。 最後ににっこり笑うと、征治さんは踵を返し元来た道を帰っていく。 曲がり角で姿が見えなくなるまで、征治さんは一度も振り返らなかった。

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