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第105話
食後にソファーに座り、出されたお茶をいただく。正面のテレビは夜の報道番組を流しているけれど、酔いのせいかあまり集中して聞くことができない。
ソファーの座面が少し揺れて、吉沢さんが体ごとこちらを向いた。
「ねえ、風見君」
呼びかけられて、僕もお茶をテーブルに置いて吉沢さんの方を向く。
「君がマスクを掛けずに対面できるのは、僕だけなのかな?」
そう言われればそうだ。ユニコルノの山瀬さんと会う時、思い切って外してみたけど、結局また僕はマスクなしで人前に出られなくなっている。
僕はこくりと頷く。
途端に吉沢さんの顔が嬉しそうに笑みを湛える。
「それは、風見君にとって僕は特別だと思っていいのかな?君は僕だけに心を開いてくれていると思ってもいいのかな?」
僕は回らない頭で考える。
ボロボロになってたどり着いた群馬の工場で、生きていくための最低限を稼ぐためだけに意思のないロボットのように働いていた僕に、もう一度感情を取り戻させてくれたのは吉沢さんだ。綺麗なものを綺麗だという人間らしい感覚を取り戻させてくれた恩人だ。
僕はまたこくりと頷いた。
すると吉沢さんは満足気に息を吐き、ゆっくりと片手を伸ばしてきてそっと僕の頬に触れた。
「出会った頃は、君はまだ半分少年のようだった。顔にはあどけなさが残っていて、とても痩せていて・・・休みになって君に会いに行くたび少しずつ大人になっている君は、まるで蝶が羽化していくように美しく変身して・・・」
そう言いながら僕の頬を撫で続ける。僕は恍惚とした吉沢さんの表情を見ながら、そういえば最近、他にも蝶が羽化したようだと言った人がいたなとぼんやり考える。
「こんなに美しいのに隠さなければいけないなんて勿体ない。だけど、この美しさ知っているのは僕だけだと思って喜んでしまうのは・・・いけないことかな?
君を縛り付けているものをほどいて声を取り戻してあげたいと思っているのは本当なのに、籠に閉じ込めて僕一人で愛でていたいと思ってしまう僕は矛盾の塊だね・・・」
僕はどう反応していいのか分からなくなって少し首を傾げた。僕の頬を撫でて続けていた吉沢さんの指が僕の唇の端に触れ、ピクリと反射が起こる。それを感じたのか吉沢さんがゴクリと唾を飲んだのを見て、僕は急に意識がハッキリした。
くいっと背筋を伸ばすと、僕を撫で続けていた手は名残惜しそうに去っていった。
「お風呂に入っておいで」
吉沢さんも気持ちを切り替えたように明るく言い、風呂場へ案内してくれた。
「物が多くてごめんね。普段使わないものを、この部屋に押し込んじゃってて」
そう言って客用布団を敷いてくれた吉沢さんに、おやすみなさいのつもりでぺこりとお辞儀をして扉を閉め、布団に横になる。
さっき吉沢さんに頬を触れられても何も感じなかった。
嫌悪感を感じなかったのだから上等じゃないか。元々、僕の体は色々おかしい。
吉沢さんがゲイだとして、彼と一緒に生きていくということは、やっぱりそういう関係も込みなのだろうし、彼が性的に僕に求めることは、たぶん僕を抱きたいってことだろうと思う。
だとしたら僕が反応しなくても大丈夫なんじゃないかな。忌まわしい記憶も掘り起こされたりしなかったし、生理的にどうしても駄目ってことにはならない気がして、何となく安心して眠りについた。
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