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第108話
翌朝、僕は何事もなかったかのように笑顔でお早うございますのつもりのペコリをし、キッチンで朝食の準備を手伝った。吉沢さんもいつもと様子は変わらない。
『今日は、図書館で資料集めをします。その後で、自宅に帰って工事の様子を見てきます』
「もし、まだ工事が終わっていなかったら今夜もうちに泊まるといいよ」
『ありがとうございます。様子をメールで連絡入れますね』
二人でそろってマンションを出て駅に向かう。隣で吉沢さんはふふっと笑って「一緒に出勤ってなんだか楽しいな」と呟いた。僕はマスクの中でどんな表情をしていただろう。
吉沢さんとは反対方向の電車に乗った時、肩の力が抜けてなんだかほっとした。
図書館は僕の家から最寄り駅を挟んで反対側にある。家から歩いても20分と掛からない。今日は駅から直接向かい、僕が定位置にしている席を確保すると、午前中は小説のための資料集めに費やした。途中で顔なじみの司書さんたちに会って会釈をする。
空腹を感じて時計を見ると1時半だった。お昼を調達して、一度家に戻ってみることにした。
図書館近くのベーカリーでサンドイッチを買い、駅を通り抜けて公園を突っ切る。途中の噴水広場でふと思い立ち、ベンチに腰掛けてサンドイッチをここで食べることにした。
雲一つない今日は、夏の日差しが照り付けているが、木陰にいれば風もあって心地いい。近くでアブラゼミが鳴きはじめた。
今日は平日だし暑い時間帯だから、広場はほぼ無人だ。僕はマスクを外して、サンドイッチを頬張った。
噴水を見ながらもぐもぐと咀嚼をくりかえし、ここで征治さんに会ったんだよなあと思い出す。
元々、征治さんは家が近いから時々ここを利用していたのかな?じゃあ、休みの日にこの辺をうろうろしていれば偶然会ったりできるのかな。征治さんは僕がこのすぐ傍に住んでることは知らないわけだし。
もし、征治さんがここで本なんて読んでいたら、僕の家の窓から見えちゃうな。何しろ僕は双眼鏡まで持ってるんだから。でもそれじゃあまるでストーカーみたいじゃないか、と自分で突っ込む。
あの双眼鏡捨てた方がいいのかも。僕はずっと征治さんの姿を探してしまうかもしれない。
・・・なぜ?征治さんが昔のまんま優しかったから、懐かしくて?
征治さんとお別れして、ひと月以上たったが、ずっと僕の中に思慕の念があるのはごまかせない。
征治さんは僕に「過去のことは吹っ切って、前を向いて歩いて行って欲しい」と言った。過去に繋がる自分はもう二度と姿を見せないとも言った。
それを聞いた僕の胸は酷く痛かった。征治さんと繋がっていてはいけないの?たまに会ったりすることはよくない事なの?
でも征治さんの目があまりに真剣で、「陽向、幸せになって」と言った声に沢山の想いが詰まっているようで、僕は何も言えなかった。
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