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第116話
「声を出していなかった期間が長かったんだ。ゆっくりいけばいいよ。声が出るようになったら・・・陽向はどんな声をしているんだろうね。俺は声変わりする前の声しか知らないんだなあ」
そう言うと、征治さんの視線が遠くを見るように泳ぐ。昔の僕の声を思い出そうとしているのかもしれない。
仮に僕の声が出るようになったとして、それを征治さんに聞かせる機会はやっぱり無いのだろうか。
「ところでさ。さっき、コンビニに行ったときに思ったんだけど、誰かに見られているかもしれないと思うだけで、短時間でも神経が疲れるものだね。陽向は今までストレスとか大丈夫だったの?」
『身の回りを勝手に探られてるって気が付いたのは、ごく最近で』
「家の中の物を探られたり、カメラの心配をするなんて、心当たりがある人は陽向の身近な人なのかな?家の鍵の複製とか取られてないだろうか。鍵の交換やサブキーを付けることも明日ESセキュリティーさんに相談してみたら?
それから・・・俺は身近な人を疑わなきゃいけない陽向の心がとても心配だな。陽向、大丈夫?」
征治さんのその言葉は、僕の胸にすとんと落ちてきた。
そうなんだ。全然知らない人や親しくない人にあんなことをされても、気味が悪いには違いないけど、もっと単純に腹を立て正面からやめてくれって言えるんだ。ずっと兄のように信頼していた吉沢さんだから僕はこんなに混乱してるんだ。
急に悲しい気持ちでいっぱいになった。
よっぽど僕が情けない顔をしていたのだろう。俯いてぎゅっと両の手を握りしめた僕を、征治さんが隣からそっと腕を伸ばしてきて優しく抱きしめてくれる。僕の背中を落ち着かせるように撫でながら言った。
「ねえ、陽向。もしかしたら陽向はなんとなく原因が分かっているのかな?怖がらせるつもりはないけど、明日、業者に盗聴器や隠しカメラを探してもらうことが出来ても、原因が取り除かれなければ同じことの繰り返しになるかもしれない。問題を解決する方法を見つけられるかな?」
落ち着いた話し方と、ゆっくり背中を撫でてくれる手の温かさ、そしていつもの柑橘系の征治さんの匂いに包まれて緊張がゆるゆると解けていくのがわかる。征治さんの肩に甘えるように頭を預けてしまった。
「もし、気持ちのすれ違いが原因なら一度ちゃんと話し合ってみたらどうかな。相手は陽向の心が良く見えなくて不安に駆られているのかもしれない。ちゃんと言葉にしてあげたら、安心してもうこんなこと、なくなるかも。
それで陽向が相手のことを許せるのなら、これからもうまくやっていけるかもしれないよ?ちゃんと気持ちを伝えても、改善しないのなら・・・俺にできる協力ならなんでもするよ」
征治さんの声が、耳からだけでなく征治さんの喉から触れている僕の額を伝わって直接頭の中に響いてくる。
ああ、征治さんはもう判っちゃったんだな、吉沢さんのこと。
でも、征治さんの言うとおりだ。いくらスマホやパソコンのロックを強化したって、僕の吉沢さんへの不信感は取り除けない。僕も吉沢さんの気持ちをちゃんと理解しなくちゃ、解決しないんだ。
それを伝えたいけど、この体勢ではキーボードが叩けない。でもあまりに落ち着くこの状態を崩したくなくて、僕は指で征治さんの膝に「そうしてみます」と字を書いた。
「陽向、君はいつも我慢しちゃう子だったね。でも、欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌だって言っていいんだよ」
征治さんの肩に頭を預けたまま頷いて見せる。
「うまく解決できるといいね。いや、きっとうまくいくよ。大丈夫だよ、陽向」
優しく耳元で囁かれ、赤ん坊のように背中を撫でられ、まるでゆりかごの中にいるように安心しきった僕は、そのまま征治さんの腕の中で眠りに落ちて行ってしまった。
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