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第140話

執筆に没頭し、淡々と過ぎていく日々。 公園の木々が葉を散らし始めた頃、吉沢さんから転勤と転居を知らせる葉書が届いた。 勤め人の人達が使う紋切り型の印刷物の隅に、肉筆で「東京の病院と勝手が違って戸惑うことも多いけど何とかやっています。」と書き加えられている。 吉沢さんが、この葉書を僕に出そうか、出すまいか、出すとすれば事務的に出すのか一言書き加えるのかで悩んだのが手に取るように分かった。 でも僕はこの葉書が届いたことが素直に嬉しかった。 吉沢さんはきっと、友人関係に戻るための階段を、踏ん切りをつけて一段上ったんだと思う。 僕はこのまま、こんな風に留まっていていいのかな。 執筆中の小説の中で、三人の登場人物が体の動かなくなったAの本当の望みは何かと悩むシーンがある。 薬の完成を待つAのために、Bは未だ開発途中である、患者の脳の電気信号を取り出しそれにより肉体に装着したロボットスーツを動かして、日常生活をスムーズに送れるようにするというシステムの早期完成を目指す。 CはAの今現在の精神的苦痛を和らげる方法を考える。実際に体が動かせなくても、あたかも自分でそれを体現したように脳が勘違いをすれば、満足できるのではないか。つまり、よりリアルに近いバーチャル体験でイライラを解消しようと考える。 しかし、ゲームの様にあらかじめ設定された限られたパターンだけではダメなのだ。Aがしたいと思う行動をそのまま再現できなければならない。そのためには彼の嗜好を踏まえたうえで、あらゆる欲求をデータ化しなければならない。 そこで、CはBに脳から運動に関すること以外の電気信号が引き出せないか相談する。思考そのものを電気信号として捉えらてデータ化するのだ。話を聞いたBは面白いと思ったものの、問題に気が付く。 AとBは親友で、Aが子供の頃からCのことが好きなのを知っているのだ。おまけにAは天才的な頭脳を持ちながら、プライドが高いうえに恋愛には極端に臆病で、その気持ちをCには絶対に知られたくないと思っているのだ。 そしてよく言えば研究熱心、悪く言えば科学オタクのCは全くAの気持ちには気付かないまま、このシステムが完成すればAだけでなく、世界中の色々な事情で体が動かせない人の救いになると意気込むのだ。戸惑うAに対し、あなたも科学者の卵なら世の人々のために身を挺して実験台になれと迫る。 そこで問題になるのは、本人にとって何が本当の欲求で、脳が満足する幸せなのかということだ。同じ人格の中に相反する気持ちが存在するのは人間の常だ。 例えば、AはCが好きなのだから、心の奥底では両想いになれれば嬉しいはずだ。しかし、臆病なAはずっと続いてきた幼馴染という関係が失われてしまうリスクがある以上、絶対に相手に気持ちを知られてはならないと頑なに思い込んでいる。 この場合、脳から直接欲求を電気信号として取り出すと、どちらが優先されてしまうのか。 もっと単純なことだってそうだ。 このケーキを食べたい。でも食べて太りたくないから我慢したい。 疲れているから寝たい。でも宿題が終わっていないから寝たらだめだと思う。

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