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第142話
征治さんに会うと決めてからの僕の気分の高揚は分かりやす過ぎた。なんとなく周りの景色まで彩度が上がったように見えるのだから、我ながらおかしい。
会ったらなんて言おう?
そう考えただけでドキドキしてくる。
吉沢さんと別れたことを話さないと。
それから僕の思っていることを聞いてもらおう。
ちゃんと僕の中では昔の辛い記憶は整理できていて、過去ばかり振り返らず僕なりに頑張って前に進んでいくから、繋がりを切らないでって。
元々は吉沢さんの強い勧めで発声の回復に努めることにしたから、この間まで落ち込んでいたときは、全然変化も見られないし誰かと話す必要も感じられず、治療はもういいかと思い始めていた。
でも、僕が治療を始めたと話した時の征治さんの嬉しそうな顔が忘れらなかった。もし、僕が途中で放り出したと知ったらきっとがっかりするだろうと思い直したのだ。
ちゃんと仕事もして、治療もして、自立してやっていく。征治さんに迷惑は掛けない。
だから、幼馴染としてで構わないから、時々会って顔が見たい。そう伝えたい。
少し不安もあるけど・・・きっと征治さんなら、ちゃんと僕の考えを聞いて分かってくれると思う。
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僕は今、征治さんのマンションに来ている。
エントランス近くに植えられているコニファーを取り囲むブロックの上に腰掛けて、征治さんの帰りを待っていた。
最初に貰った名刺に会社の征治さんのアドレスが載っているから、事前に連絡することもできたのだが、万が一断られたら困るので会える確証も無いけれどここで待つことにした。
7時半からここで待っているけど、まだ帰ってこない。前にここへ押しかけたときも10時過ぎの帰りだったし、会社へ行きかけたときも9時ごろまだ帰っていなかったから、今日もきっと遅いのだろう。
社長秘書だったら、社長について接待に行ったりもするのかな?
元々、長期戦のつもりだったし、もし今日10時半まで待っても帰ってこなかったら、また明日来ればいい。征治さんに会う楽しみが一日延びるだけ。
『何かを楽しみに待つということが、そのうれしいことの半分だって。そのことは実現しないかもしれないけど、でもそれを待つときの楽しさだけはまちがいなく自分のものだって』
幼いころ「幸せ探し遊び」をする僕に、征治さんが赤毛のアンの話をしてくれたことを思い出した。そう言えば、これがきっかけで征治さんが僕と勝君に読み聞かせをしてくれるようになったんだ。子供の頃から征治さんは優しくて面倒見のよいお兄さんだったな。
本当にこうして待つ間も、僕の心はふわふわと軽く、少し寒くても全然苦痛じゃない。
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