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第145話
征治さん、どうしたの?
どうして、こっちを見てくれないの?
一度も目が合わないまま5階に到着すると、征治さんは部屋の開錠をし、ドアを開けて中に僕を入れてはくれた。
でも「すぐに持ってくるから、待ってて」と僕の動きを制してしまう。部屋には上げてもらえない?
リビングの方へ姿を消した征治さんの背を見送り、慌ててバッグからパソコンとタブレットを取り出した。
玄関の下足入れの上のカウンターにそれらを並べ、パソコンを立ち上げ入力可能になるのを焦れるように待つ。
すぐに征治さんが封筒を手に戻って来た。
『急に来てごめんなさい。何か用事がありましたか?』
「いや、大丈夫だよ」
例の笑顔のまま返事が返ってくる。
『とっても疲れていますか?』
首を横に振るのを確認して、続けて打ち込む。
『聞いて欲しい話があるんです』
征治さんの顔がゆっくりとタブレットから僕の方へ向き、初めてちゃんと目が合った。
会えない間もずっと見たかった、大好きなキリッとした二重の目。
今、その目からは上手く感情が読み取れない。せめて僕の気持ちが届くようにと一心に征治さんの目を見つめ返す。
大好きな大好きな征治さん。昔のように愛してほしいなんて贅沢は言わない。だけど、そんな作った笑顔で僕を拒絶しないで。
だけど、やっと合ったと思った視線はすぐに伏せられてしまった。頭からすうっと血の気が引く様な感覚が襲ってくる。
待って。征治さん、話を聞いて。
自分が軽くパニックを起こしているのが分かる。
『吉沢さんが、福岡に転勤になったんです』
慌てたせいで、伝えるべきことの順番を間違えてしまう。違う、一番大事なことはこれじゃない。
征治さんの目がディスプレイの文字を追っているのを確認して続ける。
『僕は、どうしても征治さんと繋がりが切れてしまうのは嫌なんです。だから』
征治さんの眉間にぎゅっと力が入ったのが分かって、指が止まってしまう。怒っている?
ああ、そうだ、僕はちゃんと説明できるように文章にして纏めてきたんじゃないか。そのファイルを開こうとするのに、手が震えてしまって上手くいかない。
慌てていると、横で大きな溜息が聞こえビクリとしてしまう。
そして急に伸びてきた征治さんの手が、僕の手を掴んでキーボードの上からどかせ、パタンとノートを閉じてしまった。
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