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第151話

一連の謝罪が終わった時には自ら陽向の前から姿を消すと決めていたのに、それを行動に移すのは大変な精神的努力を要した。 その上、陽向は明らかな慕情を瞳に浮かべるようになっていて、それを見るたび心が揺れた。 しかし、陽向を幸せにできるのは自分ではないと己に言い聞かせ、陽向が新しいスタートをきれるよう背中を押して送り出した。 その後に征治を襲った虚無感は、想像していたものよりもはるかに大きいものだった。 謝罪にかこつけ、自分がどれだけ週末に陽向と会う事を楽しみにしていたのか思い知る。 ふとした瞬間に、長い睫毛に縁どられた黒目がちな目を、キーボードの上を踊る白い指先を思い出し、駅で似たような華奢な男を見かけてはハッとする。 陽向への恋心が再び燃え上がっていることを自覚して切なくなるたび、『陽向の幸せのためだ』と胸の内で呪文のように唱え、その想いを封じ込めるようにした。 そうやってなんとか自分の中で折り合いをつけていた夏の夜、陽向が助けを求めてやって来た。 マスクをつけることすら忘れ、怯えて腕に縋って来た陽向を、その場で強く抱きしめてやりたい衝動を必死で抑えた。 陽向の話を聞くうち、勝手にスマホや引き出しを見られているというストーカーとは、恐らく吉沢のことだろうと思った。陽向の暮らしぶりを聞いていた限りでは、陽向と身近な交流を持てているのは吉沢ぐらいしかいないようだったし、会って話した時に陽向への執着ぶりを感じ取っていたからだ。 当然、初めは吉沢に対して怒りが湧いた。征治としては陽向を吉沢に託したつもりだったのだ。 だが一方で吉沢の気持ちも分かる気がした。 征治に会って何かを感じ取った彼は、ずっと大切に見守って来た陽向を奪われるのではないかと危機感を持ったのだろう。 陽向は勝のことがあるから、嫉妬という感情に人一倍怯えたに違いない。 しかし、確かに卑劣な行為ではあるが、客観的に見れば吉沢のやったことは彼氏の携帯を覗く女子高生と同じだ。 征治も大切なものが自分の腕の中からすり抜けて行ってしまうあの切なさと苦しさを嫌というほど知っている。陽向への思いが強すぎた故の行動なら、一度はチャンスをやってもいいのではないか。 信頼を裏切られ傷付いている陽向を目の当りにして、思わず抱き寄せてしまったが、それは欲情からくるものではなく、ただひたすら陽向のことが愛おしく、慰め安心させてやりたいという気持ちから。 緊張の糸が切れた陽向が自分の腕の中で眠ってしまった時は、こうして陽向が自分を頼ってくれたことだけで幸せではないか、自分の恋情はもっと大きな愛に昇華することができたのだと思った。 だからこそ、眠ってしまった陽向をそのままソファーベッドに寝かせ、柔らかな髪を撫でながら「陽向、幸せになれ」とその寝顔に向かって囁くことができたのだ。 だが吉沢の行為がエスカレートし、これ以上陽向を傷付けるようなら話は別だ。場合によっては奪い返すとさえ思っていたが、問題は話し合いで解決したようだった。 征治は安堵するとともに、やはり寂しさも覚えた。 もう自分の出る幕はなくなった。あとは吉沢が二度と陽向を傷付けずに愛してくれることを遠くから祈るばかりだ。

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