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第166話

随分長いあいだ、抱き合っていた。お互いにやっと手が届いた相手から離れ難かったのかもしれない。 征治は溢れてくる愛おしさをどう表していいのか分からず、こめかみでいいからキスをしたい、陽向の目から零れる涙を吸い取ってやりたいという欲求が湧きおこるのを、なんとか抑え込んだ。 男性機能を失ったという陽向の性的なトラウマは、きっと酷く深刻なものだろう。少しでも陽向を傷付けることのないように慎重に扱ってやりたかった。 陽向の涙が落ち着いたのを見計らって征治は訊ねた。 「ねえ陽向。ここは、陽向の家なの?」 陽向はスンと洟をすすって、手で涙を拭い頷いた。そして征治の手を引いて窓際につれていく。促されて窓の外を見て驚いた。 眼下に広がる広大な公園。ほぼ真正面に噴水広場が見えその向こう側には駅舎。視線を右に振ると池があり、いつも陽向と待ち合わせた東屋の屋根も一部見えた。 「僕、東京に出てきてからずっとここに住んでます。あの公園は借景でもあり、僕の庭でもあり・・・征治さんに偶然会った日も、家にいると暗くなっちゃいそうだったので天気も良かったからあの噴水広場で仕事しようかと思って。結局、外に出ても悲しいことを思い出してしまって駄目だったけど」 「そうだったのか。あの日のことはよく覚えてるよ。俺も噴水広場で本を読んでいて、陽向に気が付いたんだ。もっともあの時はまだ、陽向だと判っていなくて、秦野青嵐にもう一度社長と会ってもらえないか頼んでみようと様子を窺っていたんだ」 「そうだったんですか」 「君はとても元気がなさそうに見えて・・・マスクもしているから病気なのかとも思って。そういえば、ずっと手に輪っかのようなものを持って指で撫でてた」 陽向は目を見開き、ちょっと待っててといってパーテーションの奥へ行き、手に小さな鍵を持って戻ってきた。今度はまた征治の手を引いてデスクの方へつれていく。 一番上の引き出しを鍵を使って開けると、中から見覚えのある茶色い封筒が出てきた。一時期、大切なものだから預かってくれと陽向から頼まれ、最後に陽向を突き放した時に返したあの封筒だ。 あの時のまま封をしてあるそれを取り出すと、陽向ははさみで封を切った。 中から出てきたものは、すべて征治の記憶にあるものばかりだった。 小さな赤い犬用の首輪。小太郎がまだ小さな子犬だったころのものだ。 確か中に・・・そう思って手に取って内側を見ると、やっぱり記憶通り「慶田盛小太郎」とマジックで書かれている。これを書いたのは征治だ。 陽向を見ると頷いている。そうか、あの日陽向が握りしめていた輪っかはこれだったんだな。 そして、小さな写真立てに入っているのは、色褪せた小太郎の写真。征治が懐かしさに浸っていると、陽向が裏の補助版を外して中の写真を取り出し、征治の手のひらに乗せた。 折り畳まれているそれを広げると、幼いころの自分と陽向のはじけるような笑顔と対面して、胸を突かれる。 「慶田盛の家を飛び出した時、持って出たのはズボンのポケットに入っていた財布とこの首輪だけでした。この写真は財布の中に入れていて・・・コタの写真には今まで随分慰められました。ずっと征治さんには憎まれていると思っていたし、昔の汚れる前の自分が無邪気に笑っているのを見るのも辛くて、こんな風に折ってしまっていたけど・・・それでも切り取ることは出来なくて・・・」 そして、デスクの上にあるもうひとつは記憶に新しい、自分が陽向に出した手紙だ。 陽向はこの三つが自分にとってとても大切なもので、人に触れられたくないと言っていたのだ。胸に熱いものがこみあげ、思わず隣に立つ陽向の肩を抱き寄せた。

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