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第221話

ある夜、仕事を終えてワゴン車で寮まで戻って来た時、ドライバーの男が「なんだ?」と前方を見ながら呟いた。 つられて前を見ると、事務所から男たちが数人道路を挟んで向かいの建物に向かって走っていく。 ドライバーがウィンドウを下げ、「どうした!?」と仲間に叫ぶと「ボーイが逃げた!」と怒鳴り声が帰って来た。 男が「チッ」と舌打ちをし、マンションの前に車を荒っぽく停める。 ドアを開けながら、 「お前らはすぐに部屋に入れ!いいな!」 そう怒鳴り、仲間が走っていった方へ視線をやる。 車を降りながらつられてそちらへ顔を向けた陽向の視界を、黒いものが通り過ぎたと思ったら、ドンという重い音がした。 地面の黒い塊が人だとようやく頭が理解した時、店の男たちの「くそっ、飛び降りやがった!」という声が聞こえてきて、それが逃げたボーイだとわかった。 ドクンと心臓が跳ねる。 あらぬ方向に折れ曲がった手足、うつ伏せている体の下にじわじわと広がっていく濃く赤い染み。 そして、その倒れている人の着衣を見て心臓はもっと早くドクドクと動き始めた。 それは陽向のベッドの上段に寝ていた、一つ歳上の男だった。 その男の名前はシンジと言った。 もっともそれは源氏名で本名は知らない。 ボーイと呼ばれる男娼たちはいわば共同生活を送っているわけだから、多少なりとも会話はする。 だが、陽向は口がきけないので、会話が成り立たないと思うらしく、誰かから話しかけられることは殆ど無かった。 シンジは例外的な一人だった。いや、話しかけているわけではなかったのかもしれない。 陽向が口がきけないことで、つい気が緩んで気持ちがぽろぽろと口からこぼれてしまっているだけだったかも知れない。 時々、ぽつりぽつりと自分の事を話した。 南の小さな島の出身であること。 夏だけスキューバをする観光客が少しやって来るような島には働き口がなく、知り合った観光客から紹介された仕事をつてに本土にやってきたこと。 来てみれば、仕事というのは振り込め詐欺の電話を高齢者に掛けまくるというものだったこと。 とてもそんなことできないと驚いて辞退すると、学習教材の営業はどうかと言われたこと。 大変評判のいい教材で、買った客にはきっと喜んでもらえると口車に乗せられ、いつの間にか自分がその教材を一旦300万で買い受けるというサインをしてしまっていたこと。 そこから坂を転げ落ちるような転落が始まったこと。 とても豊かとはいえない実家では、漁師の父と跡を継いだ兄が老朽化した漁船を買い替えたばかりでローンを沢山背負っていることが分かっているので、借金などとても言い出せなかったこと。 仕事を紹介した男に実家の場所を知られているので、逃げ帰りたくても出来なかったこと。 同僚の中には、この仕事に順応して積極的に営業を掛ける者もいるのに、自分は全く馴染めず辛いこと。 島にただ一つある小さな高校の同級生の女の子が好きだったこと。 ちゃんとした仕事に就いて、彼女に告白してみたかったこと。 ずっと帰っていない実家の兄から電話が掛かってきて、盆休みぐらい帰ってきて親孝行しろと怒られたこと。 朴訥な青年が、開かないようにロックを付けられた窓からぼんやり外を見ながら零す言葉を、陽向はいつもただ聞いていた。 慰める術も励ます術も持っていないし、シンジもそんなつもりで言っているのではないと分かっていたからだ。

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