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第246話

「陽向、陽向」 遠くで僕の本当の名前を呼ぶ声が聞こえる。 ぐっと肩を掴まれ、「触らないで!」と叫んでその手を振り払った。 急に周りが静かになった気がして、それから触れられた感触と振り払った感触がリアルに感じたことに気が付いて、意識がハッキリした。 目の前に、痛ましそうな表情をした征治さんの顔があった。 「あれ?・・・僕?」 頬が濡れている感触がある。 目の前のローテーブルには開きっぱなしの僕のノートパソコン。その隣には、汗をかいたミネラルウォーターのグラス。 状況から察するに、ソファーでプロットを考えていた僕はいつの間にか眠ってしまい、悪夢にうなされていたところを征治さんに起こされた。 いや、僕を起こそうとした征治さんに触るなと叫んで手を振り払ったのだろう。 「あ・・・ごめんなさい」 征治さんは何も言わず、床に膝立ちのまま僕をぎゅうっと抱きしめた。 「ほんとにごめんね。ちょっと夢をみてて、勘違いしただけだから」 「陽向、『来ないで』『やめて』『助けて』って、泣いてた。昔の夢を見た?」 先生と呼ばれた最初の客の夢だった。とにかく怖くて気持ち悪くて・・・ 「・・・うん。こんなのもうずっと見てなかったんだけど・・・」 「俺が過去の話をさせたせいだね。ごめん」 そんな、征治さんを責めるつもりなんてない、と頭を振る。 「陽向は声が出なかったけど、心の中ではずっとさっきみたいに叫んでいたんだね。辛かったね」 そういって、落ち着かせるように僕の背中を優しく撫で続けてくれる。そのおかげか、ドクドク言っていた鼓動が嘘のように静まってきた。 「だけど陽向、もう全部終わったことだよ。目を覚ませばちゃんと苦痛も怖い事もない日常に帰ってこられるからね?」 それを聞いて、すうっと胸が軽くなった。 「昨日夜更かししたから、もう寝よう。お風呂に入って来るからベッドで待ってて」 「仕事は?」 「特急扱いのは、段取り付いたから」 そう言って、僕の頭をくしゃりと撫でて征治さんは優しく笑った。 ベッドの中で「さっきみたいな夢、時々見る?」と征治さんが聞いた。 自分のせいだと責任を感じているのかも知れない。 「ううん。本当に久しぶりだったけど、大丈夫だよ? 沢井のところから脱走してから、極力それまでのことを思い出さないように封印してきたんだ。だからかな、今では事細かな事は殆ど思い出さない。 だけど、以前は鏡に映ったタトゥーを見る度、漠然とした黒くて重たい負のイメージが覆いかぶさって来る・・・そんな感じだった」 「・・・排膿だ」 「ハイノウ?何?」 「怪我や疾患で、内部に膿が溜まっているとね、それを出してしまわないと、痛みも炎症もなかなか治らないんだ」 「うん?」 「陽向が奥底に秘めていた過去がずっと膿として溜まっていたんだ。それを俺に話したことで切開のメスが入った。だから、膿が出てきたんだ。膿を全部出しきらないまま切開部が塞がっちゃうと、再発しちゃうんだよ。 陽向。また、嫌な夢を見ても怯えないで。膿が出てきている証拠なんだから。全部出しきってしまって、薬を塗ってきれいに治そう」 征治さんの言葉はイメージしやすかった。 また、僕に暗示を掛けてくれている。 「その、薬を塗って傷口を塞ぐためのアフターケアは、俺がやるからね。他の人にさせちゃダメだよ」 最後は茶目っ気たっぷりにそう言って、笑う。 「ふふっ。分かりました、ドクター。では、お休みのキスをしてくれますか?」 「うむ。私はこの患者に気があるからね。特別なキスをあげよう」 そして本当に蕩けるような甘いキスをくれた。

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