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第253話

「晩御飯まだだよね?美味しい鯖寿司買って来たんだけど、陽向は鯖大丈夫?」 「うん。鯖は好き。僕も鰻貰ったんだ。征治さん、鰻好き?」 「わ、老舗の有名店だね、それ」 どうしたんだ、僕は。征治さんがやっと帰ってきて嬉しくてたまらないはずなのに。 取り敢えず、この得体の知れないもやもやは横に置いておこう。 そう思って、気持ちを切り替え明るい話題に徹してきたのに、駅からの帰り道沿いにあるミニスーパーでネギと豆腐を買ってマンションに着くころには、また不安にかられてしまった。 「うーん、暑いけど一度空気を入れ替えてからエアコンを付けよう」 スーツの上着をダイニング椅子の背に掛けた征治さんがベランダの掃き出し窓に向かった時、限界が来た。 背中から征治さんにしがみ付く。 「陽向?」 何も答えず、ぎゅうぎゅうしがみ付く僕に、征治さんがもう一度優しい声で「どうしたの?」と尋ねたが、ただ額を征治さんのうなじに擦り付けることしかできない。だって自分でもよくわからないから。 ふぅと溜息のようなものが聞こえたと思ったら、征治さんのお腹に回していた腕をぐっと掴まれ、あっという間に向き合う形にされていた。 大きな手で頬を包まれ、正面から見つめられた。強い視線に射抜かれ「陽向」と名を呼ばれて心と体が震える。 ふっと優しい眼差しに変わった征治さんに、互いの鼻がぶつかりそうなほど近くで「ただいま」と囁かれ、返そうとした「お帰りなさい」は最後まで音になる前に征治さんの唇の中へ消えた。 柔らかく唇を食まれ、男らしい骨ばった指で髪を梳かれ、「会いたかったよ」と優しく囁やかれると、もやもやは次第に霧散してゆく。 「僕も、会いたかった・・・凄く会いたかった」 キスの合間に言えたのはそれだけだった。 最初甘やかだった口づけは、次第に熱を帯びて深く激しいものになり、気が付けば僕は壁に追い詰められていた。 夏の閉め切った蒸し風呂のような部屋の中で、自分の首筋に流れる汗とぴちゃぴちゃと粘膜が触れ合う音、呆れる程甘ったるい自分の喉から漏れる声。 それだけが、クラクラと眩暈がをおこしているような意識の中で、これが現実に起きていることだと教えている。 ああ、征治さん。僕の征治さん。僕をはなさないで。 もうそれ以外は何も考えられなかった。 脳が溶けるようなキスに、とうとう腰が砕け自分の体さえ支えられなくなった僕は、ズルズルと壁を背に滑り落ち始め、征治さんの腕に腰を支えられた。 なんとか両手で征治さんの肩に掴まった僕を引き摺るようにソファーまで連れて行った征治さんは、僕の前髪をかき上げて額にチュッと音を立ててキスをすると「窓を開けるよ?」と言った。 呆けたまま頷く僕に、クスッと色っぽく笑って頬を優しく撫でた後、征治さんは家中の窓を開けて回った。背中にワイシャツが汗で張り付いていた。

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