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第5話

結局、打ち合わせ当日の朝10時半過ぎにやっと新千歳から飛び立つことができ、なんとか1時過ぎには目的地に辿り着けることになった。 月野珈琲店に着き、店員に個室前まで案内される。この店は個室と言っても各部屋のドアの上半分はガラスで、近づけば外からも中の様子が見える。 山瀬とテーブルを挟んで座っている男が二人。 顔は見えないが、一人はスーツを着ているから多分出版社の担当者で、その奥に座っているカジュアルなジャケットを着て緩いパーマの少し長めの髪の若い男が作家の方だろう。 征治はコホンと咳ばらいをしてから、ドアを開けた。 「遅れて申し訳ありません」 続けて名前を名乗ろうとしたとき、ちょっとした騒ぎが起きた。 急に登場して驚かせてしまったのか、作家の男がグラスに手をぶつけて倒してしまい、水をテーブルにぶちまけてしまったのだ。 3人の男たちがあわあわと立ち上がる。 山瀬が「おっと!」といいながら目の前に置かれていたタブレットを持ち上げ、スーツの男が素早くドアを開け店員にテーブルを拭くものを持ってきてもらうよう頼んでいる。 作家の男は、自分の目の前にあったノートパソコンを持ち上げうろたえているだけで、うんともすんとも言わない。 こういう場合、普通「すいません」ぐらい言うもんじゃないか? そう思ってテーブルから作家の方へ目を向けようと少し目線を上げた時、ノートパソコンを抱える手がぶるぶると震えているのが見えた。なにか不自由でもあるのだろうか。うつむいたその顔を見ると蒼白だった。 すぐに店員がやってきて、テーブルの上を綺麗に拭き上げてくれた。出版社の男が謝っている横で、作家の方はぺこりぺこりと頭を下げている。 やはり一言も謝らないこの男は、いわゆるコミュ障ってやつなのだろうか?引きこもりだしな。 ようやく部屋が落ち着きを取り戻したところで、改めて自己紹介をして二人に名刺を渡す。スーツの男から受け取った名刺には、やはり交渉相手であった『あすなろ出版 篠田拓郎』とある。 作家の男は、受け取った名刺をしばらくじっと見つめていたかと思うと、無言でパソコンのキーボードを素早く操作した。すると、征治と山瀬の間に置かれていたタブレットが画面いっぱいに文字を映し出した。 『秦野 青嵐(ハタノ セイラン)です。 私は口がきけません。 やり取りはこちらでお願いします』 征治ははっとして、初めてまともに男の顔を見た。 綺麗な男だった。長めの髪が顔に掛かっているのが少々うっとおしいが、整った顔立ちに長い睫毛に覆われた優し気な目をしている。 初めて目があったと思ったら、秦野はぎこちなく頭を下げ、その姿勢を戻した時には彼の視線は正面に座る山瀬の方を向いてしまっていた。 山瀬が口を開いた。 「で、さっきの続きですが、1冊目は毛色が違いますが3冊ともテーマは幸福だと思うんです。一貫して幸福をテーマにされているのには何か訳があるんですか?」 山瀬が普通に喋っているのだから、きっと耳は聞こえているのだろう。 征治は秦野青嵐の1冊目の話を思い出した。

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