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第13話

追いかけた征治は、後ろから声を掛けた。 「秦野さん、こんにちは」 秦野の動きがピタリと止まる。ゆっくりと警戒するように振り向いた彼は、こちらの顔を見て大きく目を瞠り、固まった。 「あの、ユニコルノの松平です。先週、うちの社長の山瀬と一緒にお目にかかった」 秦野の目がじっと征治を見ている。今日はちゃんと視線がこちらに合わせられている。 「偶然お見掛けしまして。今、ちょっとお時間よろしいですか?」 秦野は無反応のまま、長い前髪の間からこちらを見つめ返している。征治はそれを肯定ととらえ、続けた。 「先日はどうも有難うございました。ただ、山瀬としてはもう少しお時間をいただいて秦野さんとお話を・・・」 そこまで話した時、秦野の両目にさっと影のようなものが走ったのが分かった。 顔の大部分はマスクで覆われていて、相手の意思が汲み取れるのはわずかに見えているその眼からだけなのだが、そこには明らかにマイナスの感情、敢えて言うならば失望?が浮かんでいる。 その証拠に彼の目はゆっくりと伏せられ、もうこちらを見ようとしない。 征治はめげずに、前回は何かこちらの不手際で気分を害してしまったのではないか、もう一度機会をもらえないかと説得してみたが、秦野は立ち尽くしたまま無反応だった。 本当にこちらの声は相手に聞こえているのだろうかと不安になってきたころ、秦野は伏せていた視線を上げ、黙って首を横に振った。そして、突如深く腰を折って頭を下げた。 あまりに長い間相手が頭を下げ続けているので、征治がうろたえて「秦野さん?」と声を掛けると、やっと頭を上げちらりと征治を見た。 だが、すぐにくるりと踵を返してこちらへ背を向け、歩き出してしまった。 もう一度背後から「秦野さん?」と声を掛けたが、もう彼は立ち止まりも振り返りもしなかった。 征治はふぅと息を吐いた。本当によくわからない男だ。やっぱりコミュ障なんじゃないか。なんとなく今後秦野がこちらの要望に応えることは無いような気がした。 さて、俺も帰ろう。随分遅くなったから、帰りは一駅電車に乗って帰るかと歩き出した。 そういえば秦野は駅とは反対の方へ歩いて行ったな、この辺りに住んでいるのだろうかとふと振り返って驚いた。 秦野がさっき別れたところからいくらも離れていないところで、立ち止まりこちらを見ていたのだ。 征治と目が合った途端、慌てたように身を翻し、足早に出口から去っていくその姿を見て、更に不可解な印象を受けたのだった。 翌日、会社で山瀬に秦野と偶然に会ったこと、そして再度話を聞くのは難しそうだという自分の印象を伝えた。 「そうか。わかった。この件は一旦置こう。あんまり、あの人を追い詰めちゃっても悪いしな」 「引きこもりが激しくなると?」 「いや、俺は彼が言いかけて止めた台詞が気になっているんだ。『夢を、見てしまったんです』と書いていたよな?何か、夢を見てはいけないのに見てしまったというニュアンスがあるじゃないか。 『春告げ鳥』の登場人物はそれぞれ最後に幸せを手に入れるが、そこに辿り着くまでかなり厳しい状況に追い込まれる者も多かっただろ?彼は決してただの能天気な作家ではないよな」 それは征治もそう思う。征治が対面した時の彼はずっと暗いベールのようなものに包まれていた。 「それに、その様子じゃ、秦野作品がすぐに何かに利用されるようなことにはならないだろうから。別に試してみたいアイデアも浮かんだからそっちを先に検討しよう」 征治は頷いた。保留と言うより、もうこの件は終わりだろう。 征治は頭を切り替え、通常の業務に戻った。 しかし、歯車というものは一度一つが動き出すと、かみ合っている他の歯車を次々と連動させ始めるものだ。 だが、その時の征治はまだ、その歯車がぎしりという音をたて、ゆっくりと動き出したことに気が付いてはいなかった。

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