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第14話

それからの一週間は、期限に迫られた業務に忙殺され、秦野の事を思い出すこともなかった。 ようやく一息ついたころ、あすなろ出版の篠田から電話が掛かってきた。秦野の気でも変わったのだろうか。 しかし、篠田の話は意外なものだった。 「松平さんに個人的なお願いがあるんです。吉沢さんという人に会っていただけないでしょうか。吉沢さんはうちの社長の友人であり、秦野さんの友人でもあります。私もよく存じています」 「なぜ、私がその方と会う必要があるのでしょうか?」 「吉沢さんが、秦野さんの件でぜひとも松平さんと話してみたいと仰っていて。ああ、身元は確かな方ですよ。大学病院で臨床心理士をされています。実はここ最近秦野さんのご様子がおかしくてですね、ちょうど吉沢さんにお会いした時にそんな話になって。心配なので、私からもどうかお願いします」 なんだか変な話に巻き込まれた感があるが、あんまり熱心に篠田が頼むし、前回は篠田が尽力してくれたという義理もある。仕事も一段落したことだしと翌日の退社後に吉沢という男と会うことになった。 篠田が予約を入れておくと言った肩肘張らない和食の店へ着くと、吉沢という男はもう個室で待っていた。 「初めまして、吉沢です。この度はご無理を言って申し訳ありません」 丁寧に頭を下げる男は眼鏡をかけた知的な印象で、かと言って冷たそうなわけではなく、どちらかというと人好きのする顔だろう。 挨拶を交わした後、征治は率直に疑問をぶつけてみた。 「実は、なぜ私がここに呼ばれたのか、今もってさっぱりわからないのです。私は秦野さんとは殆ど接点などないですよ?」 「ええ、わかっています。ただ、私が松平さんにお聞きしたことがあるだけなんです。その前に、少し長くなりますが私と彼の話をしてもいいでしょうか?」 征治は頷いた。 「私の実家は群馬なんですが大学から東京へ出てきていたので、実家に帰るのは長期の休みぐらいでした。まだ私が大学生の頃、夏休みに実家に帰ると、近所のおじさんが相談したいことがあるというんです。 そのおじさんは、若い頃に奥さんを亡くされ、お子さんもいらっしゃらない独り身のかたでしたが、子供が大好きでね。休みの日になると公園にやってきて一日中子供たちと遊んでくれ、近所の子供達からは「酒田のおじさん」と大人気でした。私も小さい頃からよく遊んでもらいました。 酒田さんの相談はこういうものでした。酒田さんは電機メーカーの下請け工場で雇われ工場長をされていたんですが、そこで働いている口のきけない青年をなんとかしてやれないか、隆くんはカウンセラーの先生になったんだろうと言うのです。 詳しく聞くと、その青年は耳は聞こえるが、声を出すことができない。しかし、それは生まれつきそうであったわけではなく、どうやら何か心理的なきっかけがあったようだというのです。 実は酒田さんの子供の頃の友達で心因性で一時期に耳が聞こえなくなった人がいて、後に心療内科に通って聴力を回復した人がいるんです。 その友達の家庭環境は劣悪で両親の罵りあいが絶えず、父親が「お前の母親はあばずれだ」だとかおよそ子供には聞くに堪えない台詞を、わざわざ母親の目の前で耳元で聞かせ続けたのだそうです。気が付いた時には彼の耳は聞こえなくなっていて、聾学校に転校していったそうです。しかし、高校で再会した時にはもう治っていた。離婚した母親が別の男性と再婚したのだそうですが、その新しい父親が彼を一生懸命精神科などに連れて行き、その結果また聞こえるようになったというのです。 実は、その話こそが私が臨床心理士と言う仕事に興味を持ったきっかけでした。しかし、私は臨床心理士になるための勉強中の身で、まだ患者さんの相談にのれるわけでは無いと説明しました。 酒田さんはひどくがっかりした様子でした。聞くと、その青年に自分の友人の話を聞かせ、病院へ行ってみろと散々説得したそうなのです。だが、青年は頑なにそれを拒む。なぜなのかと問い詰めると、『相手に届かない言葉は必要がないでしょう』と書いて答えたのだそうです。

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