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第15話
私は、興味を持ちました。心理的原因で口がきけなくなり、またそれでいいと思っている青年。年も自分とさして変わらないその青年と、まずは会ってみて友達になってみようと思うと酒田さんに提案しました。
酒田さんは喜びました。初めて工場にやってきたときの彼はボロ雑巾のように痩せてやつれていて身寄りもないというので、放っておけないと思い世話を焼いてきた。仕事は真面目でコツコツ働くが、口をきけないせいもあって友達が一人もおらず、とても心配をしていたのだそうです。
それが、彼と私が知り合ったきっかけでした。最初、彼はなかなか心を開こうとしてくれませんでした。確かに彼の心の中には硬い石のような塊があって、おおきなトラウマが窺えました。でも、私は彼をあくまで友人として接することにしました。休みのあいだ、毎日のように彼を訪問し散歩に連れ出すうちに、あることに気が付きました。
彼は川の水面や揺れる木々、そういうものをじっと見るのです。夕焼けが見えたときも周りが薄墨色に変わっていくまで、立ち止まってずっと眺め続けるのです。私はふと思いついて、彼を自分の実家に連れて行きました。
実は、私は写真が趣味で高校も写真部だったんです。実家の自分の部屋にも昔撮った写真を大きく引き伸ばしたものや、パソコンには最近撮ったもののデータもあるので、それを彼に見せました。それらは少なからず彼の興味を引いたようでした。私の予想通り、彼は美しいものが好きで、彼が最初に自発的に私に言葉を書いてくれたのは写真の感想でした。
それをきっかけに少しずつ私たちは打ち解けていきました。もっとも、長期休みが終わると私は東京に戻ります。しかし、私は連休などははなるべく実家に戻るようにして彼との交友を続けてきました。
彼は自分に関することは語りたがりません。特に過去に関することはタブーの様でした。でも、感受性が豊かで、写真や綺麗なものを見たときの感想がなんというかとても良いのです。とても私では思いつかないような言葉で感じたことを表現するのです。そして、それは高い知性を感じさせました。
ある時、私の高校時代の写真部の友人が連絡をしてきました。友人も趣味で写真を撮り続けていて、最近は投稿サイトに作品を出している、サイト内で時々コンクールのようなものがあって、いい順位が付いて他人から評価されるのは嬉しいものだ、手軽だしお前もやってみろよと言うのです。
その話を聞いて、私は閃きました。彼も文章を書いて投稿サイトなどに載せたらいいのではないかと思ったんです。
彼が小説が好きでよく読んでいることは知っていました。そして彼が書く言葉はすばらしい。もし、彼の書いたものが少しでも誰かに評価をされれば「相手に届かない言葉は必要がない」という彼の考えも少し変わるかもしれない、そんなふうに考えたんです。
最初、彼は嫌がりました。しかし、携帯から簡単に投稿できること、ネット上では本名を名乗らず他人になれること、嫌になればいつだって止められること、そして社会人になったら私が今までのように実家には戻ってこられなくなるから、ネット上で君の作品が読めれば離れていても君の感じていることが分かって嬉しいと説得しました。
ずいぶん迷った挙句に彼は「青嵐」という名前で、文章を書き始めました。最初は少しずつ、簡単なエッセイや詩を載せました。それから短編小説。しかしやがて彼の内部でとどまっていた言葉が一気に溢れ出すように、彼は書き始めました。
サイト内での評価も上々で、勿論私も良い文章だと思った。ですが、私には善し悪しが判断できるほど文学的才能は有りません。そこで、小さな出版社の2代目をやっている大学時代の友人に読んでみてもらったんです。もうおわかりだと思いますが、それがあすなろ出版の社長です。そして、彼は本を出すまでになった。
最近の彼は少し自信もついてきたように見えました。そこで私は、思い切って声を出す訓練を受けてみないかと持ちかけました。もう、君の言葉はちゃんと人に届く。あとは脳がちゃんと声を出すように指令を出すように、そして使わずにいて筋肉が衰えているであろう声帯を専門家の元でトレーニングしようと説得し、彼もやってみると言ったんです。
先の酒田さんの友人の聴力の話は、心療内科に通ったから治ったのかどうかはわかりません。新しい父親が本心からその人のことを心配して一緒にあちこちの病院を回ってくれたことの方が大きな影響があった可能性もあります。
でも、それは彼にとっても同じです。本人が声など必要ないと思っている限り、きっと声はでない。彼が治療をしてみようと思ったことが大きな前進なのです。
ここまでくるのに、私たちが知り合ってから7年近くかかりました」
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