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第8話

律用に買ってきた椀に出来立てのお粥をよそう。 熱々なのを物語る白い湯気が立ち上ぼり、少し冷まさねーと食えねえか、と手うちわで扇いだ。 スプーンを添えてトレーを運ぶ。 「そんなに不味くはねーと思うから」 コトリ、と目の前に出された食事に少しだけ顔があがる。 (お……一応食う気はあるのか) 「……っと、悪い。見られてたら食いにくいよな」 少しだけ距離を取る。 ぱちぱちとゆっくり。 まばたきをした彼は体育座りから、ハイハイするようにしてテーブルへ近づく。 そして椀に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。 (……イヌみてえ) まるで仔犬でも拾ってきた気分になりながら様子を見守る。 ひとしきり嗅いだ彼は、しかし俺の方をじぃっと見つめ正座をした。 「……?」 幻覚か。 垂れた耳と尻尾が見えた俺はそれを振り払うと、食っていいんだぞと声をかける。 そして次の瞬間。 「あ、おい!」 思わず声をあげてしまい、律がビクッと身体を震わせ、 身体を縮ませてしまう。 「何があったんですか!」 キッチンにいた雪藤(ゆきふじ)が走り込んでくる。 彼が見たもの。 それは、トレーにこぼれてしまったお粥と口元にそれをつけて怯える律の姿だった。 「犬食いくらいで大きい声出さないでください」 まったく、と溢れたそれを片しながら「大丈夫だからね」と律に笑いかける。 「……悪い。律も本当、ごめんな」 思わず無意識で伸ばしてしまった手に、彼は小さな身体を更にぎゅっと縮めて固くなってしまう。 「……あー、その、怒ったわけじゃなくてびっくりしたというか」 (こういう時どうしたらいいんだ……) 「昴さんはとりあえず、新しいお粥を持ってきてあげてください」 俺の様子を見かねた雪藤にはい、とトレーを渡される。 「…………わかった」 元々営業マンをしていた彼は自然と好かれやすい顔をしており、ヤクザ向きな顔ではないが、こういう時かなり頼りになる。 「昴さん、口は悪いし顔も雰囲気もちょっと怖いけど、律君をいじめる気はないんだよ」 雪藤は、少し距離をとったまま、低く静かな、柔らかな声で律を宥める。 おいこら、とツッコミたくはなったがこれ以上怖がらせるのは、と口をつぐんだ。 「すぐ慣れろなんて言わないから、ちょっとずつでいいから好きになってくれると嬉しいな」 その言葉に、律は深く暗い瞳で雪藤を見て、そのままこちらへと視線を移す。 雪藤も振り返り、目だけで「何か言ってください」と訴えてくる。 (なにか、って……) 「その、な……律」 なるたけ、雪藤のように優しい声を心がけ、話しかける。 「俺は仕事柄……ついこういうしゃべり方になっちまうけどよ、お前をどうこうするつもりはないから」 懐けとは言わない。 俺を信じろとも、言うことを聞けとも。 ただ、少しでも。 「少しでも、お前が笑顔でいられる日が来ればいい。ただ、それだけなんだよ」 その言葉を律がどうとったのかはわからない。 もしかしたら、半分すら伝わっていないかもしれない。 けれど、怯えと恐怖と緊張がごちゃ混ぜになっていたその表情と雰囲気から、ほんの少し。 ほんの少しではあったものの、緊張が弛んだのを感じとり、ほっと息を吐く。 雪藤も見逃さなかったようで、にっこりと笑うとトレーから椀とスプーンを取る。 「……律君、今度はスプーン使って食べてみようか」 「あ、寝ちゃいましたね」 あれから。 雪藤がスプーンで(すく)った粥を恐る恐る、少しずつ食べた律だが、椀にあった量の半分も食べずに満腹になってしまったようで。 「気にしなくていいですよ」とそれを悟った彼が椀を片し、俺が風呂の用意をしていた間に。 「……そこで寝るのかよ」 じゅうたんにそのまま横になる律は、やっぱり犬か猫のようで。 「お腹いっぱいになったのと、少しは安心してくれたんじゃないですか」 寝顔を見つめ、ふふ、と雪藤は笑う。 「そこ、風邪引きそうで嫌だな」 「せっかくの可愛い寝顔なのに起こしちゃ可哀想ですよ」 寝息を立てるその姿は、初めて会った時は勿論、麻酔で眠っているときよりもずっと安らかだ。 「……しゃーねえか」 厚手のブランケットを持ってきて、上からかける。 「おやすみ、律。風邪引くなよ」 指通りのいい髪を一撫でし、部屋の灯りを消した。 それで、とソファーに腰かけ雪藤と向き合う。 「はい。これが頼まれていた律君の調査結果です」 「サンキュ」 ぱらぱらと調査書をめくり読んでいく。 そこには予想通り、小学校二年生の春、母親を事故で亡くしていたという事実が記されていた。 二年生の秋くらいから学校を休みがちになり、三学期には不登校になってしまったそうだ。 「……この頃から、か」 つまり七年ほど。 虐待の内容まではわからないが、その間、律はずっと独りで耐えてきたということで。 「…………頑張ったな、律」 写真の中にいる、彼の頬をそっと撫でる。 「幸せにしてやらねえと、な」 こぼれた言葉は空気中へと溶けていった。

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