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すぐ傍にいる 4

「おいっ洋?」  そのままずるずると玄関にしゃがみこむように蹲っていく洋の腰を、慌ててぐっと支えた。 「んっ……」    かなり酔っているのだろうか。それとも疲れているのだろうか。やれやれ……これじゃせっかくの可愛い誘いが台無しじゃないか。腕の中で寝てしまった洋が憎たらしくも可愛いのだから困ったものだ。 「しょうがないな。誘っておいてこれか……」  私は洋を横抱きにしてベッドまで連れて行ってやる。酒のせいか少し上気した頬に口づけ落とし、布団を胸までかけてやると安心しきった寝顔になった。  ふっ……小さな子供みたいに無防備に。いい夢を見ろ。疲れが取れるといいな。 「おやすみ……」  リビングに戻った途端、スマホが鳴った。病院から急患の呼び出しだったので、私はもう一度、洋がよく眠っていることを確かめて急いで家を出た。 「洋、続きはまた明日な」  そう心の中で呟いて。 **** 「では、また明日8時の朝食時間にお迎えに上がります」 「あぁ」  やれやれ、もう23時か。重役の希望でソウル観光にあちこち連れまわされて、やっと解放された。ふぅ……これで今日の仕事は終わりだ。  ボディガードとして日本からずっと気を張り詰めていたので、一気に疲れが出た。それにしても腹が減ったな。何か食べにいくか。  まだホテルのレストランは、やっているだろうか。そう思いながら廊下を歩いていると、丁度ホテルマンが通りかかったので、声をかけてみる。 「Excuse me.」(すいません、ちょっといいですか) 「あっ日本人の方ですか?」  意外にも若いホテルマンから流暢な日本語が返って来て驚いた。 「えぇ、あなたの日本語上手ですね」 「ありがとうございます。良い先生に習いましたから」  にっこりと微笑みながら答える青年は、やり手のホテルマンらしく爽やかで嫌味がなかった。 「あの、この時間に夕食をちゃんと食べられるレストランってホテル内にありますか。俺すごく腹減ってしまって」 「こんな時間まで大変でしたね。この時間ですとホテルで営業しているのはバーしかありませんので、もしよろしければルームサービスはいかがでしょうか」 「……そうですか」  ルームサービスなんて洒落たことは経験がないので勝手が分からず戸惑っていると、思いがけない提案を受けた。 「よろしければ、特別に日本のおにぎりも作れますよ」 「えっ? 本当ですか。じゃあそれをお願いします!」 「かしこまりました」  ラッキーだな。ソウルで日本のおにぎりが食べられるなんて。しかも俺の大好物だ! 「それにしても、よく日本のおにぎりのことを知っていましたね」 「実は大切な友人が日本人なんです。それでたまにランチに分けてもらっているんですよ。とても美味しいものですよね」  少しプライベートな話なので小声でホテルマンが囁いた。  へぇ一体どんな友人なんだろう。随分と親しみを込めてホテルマンが話すので興味を持った。 「じゃあ俺は802号室ですので、よろしくお願いします」 「はい、私は※ホテルコンシェルジュのKaiといいます。では、20分ほどでお届けいたしますので、お部屋でお待ちください。」 「分かりました、楽しみだな」  おにぎりか。部屋に戻り夜景を眺めていると、急に昔のことを思い出した。  あれは高校に入ってすぐだった。俺と洋はよく高校の屋上で昼食を一緒に取っていた。 ◇◇◇ 「洋~駄目じゃん。またパンなのか。栄養が偏るぞ」 「……そうだな」  洋は中学生の時、お母さんを病気で亡くしていた。中学は給食があったから良かったが、高校は弁当だ。洋の新しい父親は家事を何もしない人らしいから、さずかし困っていただろう。  洋は来る日も来る日も購買で買ったパンを食べているのに、俺は母が作った豪華な弁当を持ってきていたので、申し訳ない気持ちで一杯になった。 「ほら、卵焼きやるよ」 「安志、いいよ、おまえの分が減る」 「いいから食え!」  見かねた俺は、いつもそんな風に少しおかずを分けたりしていたんだ。  そんなある日…… 「あれ、洋、昼食は?」 「んっ……今日は買い損ねた」    儚げに寂しそうに笑う洋は屋上のコンクリートの壁に躰を預け、眩しそうに空を見上げた。 「お前は……馬鹿だな」  そう言いながら自分の弁当の包みを開くと、今日はおにぎりで、三角の大きなおにぎりが四つも入ってた。 「洋、これやる」 「えっいいのか」 「流石に四つも食えないからな」 「安志、助かるよ。ありがとう」  その瞬間……少し照れ臭そうに、少し嬉しそうに洋が花のように微笑んだ。あぁ久しぶりの優しい笑顔だ。洋の笑顔が嬉しくて、俺は気分よく青空を見上げた。  よかった。  洋が笑ってくれた。 「……っ」  すると、隣から小さなすすり泣くような声が耳に届いたので不思議に思って見ると、洋が涙ぐんでいた。 「洋、どうした?」  はっと我に返った洋は手の甲で慌てて、涙を拭った。 「いや……このおにぎり……具が二つ入っているから」 「あぁ、卵焼きと鮭だろ? 欲張りなんだよ。それよりなんで泣いたんだ?」 「これ……」 「何?」 「具が二つのおにぎり……母がよく作ってくれたんだ」 「……そうか」 「懐かしい……母の味みたいで……嬉しくて、つい。ごめん安志」 「いいんだよ。今度うちのおふくろにおにぎりの作り方習うといいよ」  胸が切なくなるよ。そんな泣き顔見せられると。  洋にはもう母親がいない。あんなに仲がよい親子だったのに。 「えっいいのか」 「もちろんだ!」 「安志、いつもありがとう」  幼馴染の大事な洋のためなら、洋が喜ぶのなら、どんなことだってしてあげたかった。  俺が守ってやりたかった大事な人だった。 ※ホテルコンシェルジュ コンシェルジュとは、一流ホテルで観光名所の案内からチケット手配、旅のプランづくりまで、お客様のありとあらゆるリクエストにお応えするホテルスタッフのこと。お客様にとって何でも相談できる頼もしい存在であり、ホテルの印象を左右する「ホテルの顔」的存在の職業です。

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