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いにしえの声 6

「じゃあな。おやすみ」  その声は低く甘く艶めいていて、いつもの流さんとは別人だった。  聞いてはいけないものを聞いてしまったのかも……  踵を返して立ち去ろうとしたのに、見つかってしまった。  こういう時に限ってツイテナイ! 「薙、どうした?」 「あ……えっと、喉乾いて」 「おお、そうか。ミネラルウォーターでいいか」 「うん」  グラスに入った冷たい水を手渡されたが、まだ少し気まずい空気が流れていた。 「あのさ……」 「なんだ?」 「さっき誰と電話してたんだよ? 付き合っている人とか」  余計なことを口走ってしまった。  なんでオレはこんなことを聞いてしまったのだろう。まるで電話の相手に妬いているみたいだ! 「ふっ、そんな風に聴こえたのか」  流さんは意外そうな顔をした後、嬉しそうな表情を隠せないようだった。  オレは、そこに落胆した。  そっか、そうだよな。  流さんみたいなカッコイイ大人の男性に付き合っている人がいるのは当然だよな。でも、この胸を押し潰す、喉にひっかかるような気持は、何だろう。 「どうした? 早く寝ないと、明日も午前は学校だろう」 「分かってるよ!」 **** 京都・風空寺 朝 「洋くん、起きて」 「ん……丈……まだ眠い」 「くすっ、やれやれ寝ぼけているのか……ほら今日は仕事だろう」  朝が苦手だと丈から聞いてはいたが、なるほど、これはなかなか手強いな。  胎児のようにくるんと丸まって気持ち良さそうだが、流石にもう起きないと遅刻してしまう。それにしても机の上には昨日作業していた資料やノートが積み重なって、パソコンもつけっぱなしだ。  洋くんは……見た目の美しさと反して、身の回りの整理整頓が苦手な事がよく分かった。  でも、ほっとするよ。  不器用だがひたむきに丁寧に生きているのだから、それでいい。  丁寧に今を生きていく事は、決して悪いことではない。  多少の不器用さなんて吹き飛ばす良いものを得られるだろう。  モゾモゾと眠そうに目をこすりながら、やっと洋くんが目覚めたようだ。  すぐに時計を見てギョッとしていた。 「わわわっ!寝坊してすいません」  恐縮しながら慌ててスーツを着こんで、鞄に荷物を無造作に詰め込んでいる様子に苦笑してしまった。 「洋くん少し落ちついて。まだ間に合う時間だろう。急がば回れ……だよ」 「あっはい。うわっ! でも遅刻しそうで」 「ほら朝食を食べないと、君は貧血を起こしやすいのだから」 「特別に朝食の膳を部屋にもらってきてあげるから、先に身支度整えておくといい」 「何から何まで……すいません」  叱られた小さな子供のようにうなだれているのが、可愛いと思った。  丈はこんな洋くんをいつも見ているから、あんなに過保護になったのか。  いろいろ普段知らなかった部分が見えてくるのも、旅の醍醐味だ。 **** 「朝食? あぁいいよ。この膳を部屋に持って行けよ」  朝食の精進料理を盛り付けていると、翠がやってきた。  相変わらず朝から爽やかな笑顔だ。  学生時代から何も変わらないな。  お前の、その綺麗な顔も、性格も。  少し申し訳なさそうな様子なので聞くと、寝坊して遅刻しそうな弟のために御膳を取りにきたらしい。  甲斐甲斐しい兄だ。 「悪いな、道昭」 「しかし、随分可愛がってるんだな。末の弟といっても……本当の弟じゃないんだろう?」 「ん? あぁ洋くんのこと……いや大事な弟だよ。血なんて関係ない所で繋がっているからね」 「ふぅん……よく分からないが、翠がそういうのならそうなんだろう。お前は昔から間違ったことは言わないからな」  そこまで言うと、この美人な旧友は急に押し黙ってしまった。  何かを悔いているのか……  曇った表情が、妙にひっかかった。

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