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解けていく 18

 風呂上がりの僕の躰を、流がバスタオルで丁寧に拭いてくれた。  大人しくじっとしてくれていると……薄い身体の心臓の下で、いつものように流の手が止まってしまった。  今もうっすらと残る傷跡を、流が辛そうな眼差しで見つめて来る。  この傷のせいで僕達ずいぶんと遠回りしたね…… 「流……また見ているのか。もういいじゃないか。もう過ぎ去ったことだ」 「だが今もこうやって翠の躰に留まる傷が憎い。翠は俺のモノなのに」 「流、この世では恨みが恨みによって静まることはないんだよ。恨みは恨みを捨てることによって静まるんだ。だからもう気にするな。僕はお前のモノだよ」  流は、まだじっと僕のことを見つめていた。  そんな流の濡れたままの髪を、もう一度撫でてやる。そうすることで、流の燃え上がりそうになっている闘志を静めてやりたい。  思えば僕は小さい時から流を落ち着かせるために、背を撫でてやったりしたものだ。  不思議なことに兄弟で身体を繋げたら、もう兄として弟を想う気持ちはなくなるのかと思ったが、そうではなかった。  僕は今でも流の兄でもある。その気持ちは少しも萎えていない。  兄でありながら、流を想う人だと実感している。  そんな僕の零れ落ちる気持ちを、流はちゃんと拾ってくれる。 「兄さんがそういうのなら、俺もそう思いたい。さぁ冷えるから、これも着て」  浴衣の上に丹前を羽織らせてくれ、更に足袋靴下も履かせてくれた。 「さぁこれで寒くないだろう」 「あぁ完璧だ。流も早く着ないと」  まだ腰にタオルしか巻いていない流のことが心配になり、今度は僕がバスタオルで流の身体を拭いてやろうとしたら、さっと手で制された。 「何故?」 「いいよ。自分でやる」 「たまには僕にもさせてくれ」  流の手を無理矢理押しのけて、タオルで上半身を丁寧に拭いてやる。  その逞しい腹筋や厚い胸板、よく鍛えられた躰を間近で見ると、この躰に抱かれたのかと、昨夜の情事を思い出し妙に照れ臭くなってしまった。  華奢な僕の躰とは骨格からして違うよな……そのことが同じ男として、少し羨ましくなる。 「翠……もういい」 「いい身体しているな」 「なっ」  流は少し震えながら、深いため息を漏らした。 「はぁぁぁ~せっかく静めたばかりなのに、翠は案外意地悪だな」 「えっ! そんなつもりは」  そんなことを話していると、浴室のドアの外から道昭の声が響いた。 「おいそろそろ上がれるか。待っているお客さんがいるんだ」 「悪い、今出るよ!」 「はぁ──やっぱり辛い」  流の声が、情けなく響く。 ****    高瀬くんの冷たい声に、周りの人も静まった。  まずいな……変に注目されてしまう。  こんな状況、望んでいない。    すると場が冷めたのを察した陣内という医師が、助け舟を出してくれた。 「おいおい高瀬くーん。そんなにマジになるなって。いくら高瀬くんが張矢先生の大ファンだからって、それじゃまるで『ガチ』だろう。もうその位でやめておけよ~ 冗談も行き過ぎると笑えないぞ」  最後の一言は凄みがあった。  その声に高瀬くんも冷静さを取り乱したようだった。 「あっ……冗談が過ぎました! 酔ったのかな、熱くなりすぎました。張矢先生に悪いですよね……浅岡さん、すみませんでした」 「……いえ」  俺と丈の関係は、日本ではまだまだ偏見を買う事実だ。  俺も丈に職場でカミングアウトして欲しいなんて……これっぽっちも望んでいない。  俺は丈とひっそり暮らせればいいのに、どうしてこんなことになったのか……申し訳ないことをした。  ただ医療系ライターとして、俺も社会に出てみたかっただけ。そして丈と同じ目線とは言わなくても、丈の仕事ぶりを見てみたかった。  こんな風に、波風を立てるつもりなんて毛頭なかった。  丈、ごめん──  俺って……足手纏いだよな……  心の中で深く謝った。  高瀬くんに言われた「あざとい」という言葉にも腹が立ったが、それ以上に丈の事を想っていた。 「よーしっ、じゃあ飲もう! ほら高瀬くんこっちに来いよ。浅岡さんさ、悪いけど席変わってもらってもいいかな~高瀬くんともっと話したくて」 「あっもちろんです」  陣内医師の願いを受けて高瀬くんと席を替わったが、すれ違う時、彼の眼はまだ笑っていなかった。  まずいな……争いたくないのに。  いずれ仕事仲間になる人だし、なんとか穏便にできないだろうか。  そんなことを席を替わってからも、一人で悶々と考えていた。 「……悪かったね。さっきはカッとして」 「あ……はい」  丈の余所行きの話し方に違和感と寂しさを抱きつつも、今はこれが最善なんだと言い聞かせた。  近すぎても駄目だ、難しい。  もう帰りたいよ。  都合が悪くなると逃げてしまいたくなる悪い癖が、出て来た。  そんな俺の心細い心を丈は全部分かってくれていた。  会話の盛り上がりに紛れ……俺だけに囁いてくれた言葉が効いた。 「洋、気にするな。所詮私たちの事を何も分かっていない外野の意見だ。洋のことは私が一番深く理解しているのを知っているだろう? どれだけの歴史が私たちの間にあると思っている? どれだけの愛を私が募らせていると? 私は洋が今ここにいてくれることが、とても嬉しいよ」  思わず涙が出そうになるほど、嬉しい言葉だった。  俺の丈だ。  誰にも渡したくない程、俺も好きだ。  そう大きな声で言いたくなってしまった。 すると……丈が、テーブルの下でしっかりと俺の手を握り締めてくれた。 「洋、『絆』だ──誰にも渡せない『強い絆』がここにある」

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