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出逢ってはいけない 11

 父と母の喧嘩で絶えず出てくるキーワードのような言葉は……『スイ』だった。  幼い頃は、なんのことだか分からなかった。そして『スイさん』と呼ばれる人が誰なのかは未だに俺には分からない。    中学になってだいぶ事情も呑み込め、行き当たった考えは『スイ』という人は、父の浮気相手、もしくは父が忘れられない人だということだ。  いずれにせよ母と再婚しておきながら、それはないだろう。あの日、空港で俺のことを見送ってくれた母の笑顔が忘れられないよ。  今年の夏休みは通っている中学校からオーストラリアへの語学研修に三週間行くことになっていた。三週間も家にいないで済むのは正直嬉しかった。醜い夫婦喧嘩を聞かなくて済むからな。  母さんに罪はないが、あんな人と再婚したのには罪があると思っていた。だから俺は最近優しい言葉を母にかけていなかった。今は後悔しているよ。だってまさか、あの日空港まで見送りに来てくれた姿が、最期になるなんて思いもしなかったから。  人生は突然嵐に変わる。  凪いでいた海に浮かんでいた船が、真っ逆さまに海底へと沈没するほどの嵐に。 「母さん……」  電車の車中で家族連れの幸せそうな姿に触れ、胸が締め付けられた。  不覚にも涙が零れそうになって、慌てて目元を手の甲で拭った。なんで母さんが死んで、アイツが生き残ったのか。幼い弟と妹をふたりも残してどうすんだよ。俺たちこれからどうやって生きていくんだ。扇の要だったんだよ、母さんの存在は。  帰国した俺を迎えに来る途中での交通事故だった。  あの日……俺はいつまでも空港で一人で待っていた。俺が語学研修に行かなければと、激しく後悔した。だから俺ひとり北鎌倉にある父の実家へ世話になると決めた。本来ならば俺が行くような場所ではない。だって俺は父と血が繋がっていないから、余所者といっても過言ではない。自分を罰したかった。  何も期待しない転校だったのに、そこには思いもかけない出会いがあった。  全く同じ日に、同じクラスに転校してきた、薙。  最初は、なんだか女みたいに綺麗な顔のやつ。日に透けると明るい茶色の柔らかそうな髪に色白な肌。外見はかなり軟そうだと思ったが中身は違った。群れずに靡かずに、凛とした横顔。お互い転校生同士だったし、どこか冷めた雰囲気の薙とは、すぐに意気投合した。  つかず離れずの距離感で、ここ数カ月いい付き合いをしてきた。  お互いそう認識していたようで、薙の方も俺に気を許し、俺も許し始めていた。  今日は事故からずっと入院していて、母の葬式にも現れなかった父の退院日だった。母方の祖母から、弟と妹も病院に迎えに行きたがっているから、手伝ってとヘルプが入っていたんだ。  本当はアイツの退院なんて、どうでもよかった。無視するつもりだった。でもまだ幼い弟と妹はそれなりに父に懐いているし、まぁ当たり前か……実の父親だもんな。俺だけ無視するわけにいかず、ひとりで東京に向かって北鎌倉の駅へと重たい足取りだった。  道中……自家用車で父親ともう一人の男性に囲まれた薙とすれ違った。なんとなく東京行きを誘うと、薙もどこかに出かけたい気分だったのか、すぐにのってくれた。  なんの関係もない薙を、俺の家庭の事情に巻き込んだのは何故だろう。もしかして薙が今日、なんだかすごく幸せそうに見えたらかじゃないのか。    自問自答してしまう。  違う……俺は父とは違う。そんなことするはずがない。  人の幸せを妬み、陥れるようなことはしないはずだ。 ****  当直が明けた。  今日は日曜日で外来診療がないので、真っ直ぐ家に戻れるのでほっとした。  これが平日だったらこのままぶっ通しで勤務だからな重労働だ。実際、昨夜から朝の九時までの当直の間、救急が何度も入りハードな勤務だったが、我ながらエネルギーをもって対処できたと思う。それというのも、出かけに洋とゆっくり過ごせたせいだと思う。  院外の駐車場に行き、時計をちらっと見た。  よしっ……この分なら十時には北鎌倉に戻れそうだな。  車を発車させる前に洋に連絡をしたが、留守電になっていた。  洋は低血圧なので朝に弱いのは重々承知している。日曜日だし、まだ眠っているようだな。まったく私がいないと駄目だな。だが私がいないと駄目な洋がいてくれることが嬉しくも思った。  駐車場に車を停めて、山門を潜り足早に離れへと向かう。    暗闇を怖がる洋なのだ。未だに、たまに怯えていることを知っている。  明るく送り出してくれるが、当直の度に洋が少しナーバスになることも。  だから戻ったら、すぐに温めてやりたい。     離れの玄関を開けると、部屋はブラインドがしっかり下ろされていたので真っ暗だ。そっと中へ入って真っすぐにベッドへ行くと、乱れた毛布の中に洋はいなかった。  どこへ?  そのままリビングへ行くと、ソファでガウン姿のまま丸まって眠る洋を見つけた。  馬鹿だな。冷え込んでいるのに布団に入らず眠るなんて。いや、きっと怖い夢を見てしまい、夜中に飛び起きて……眠れなくなったのだろう。  「洋……洋……」  優しく耳元で呼びかけ、頬に触れてみると冷え切っていた。  こんなに冷えて。風邪ひくぞ。  私はまず部屋を暖めてやりたくて、薪ストーブをつけた。十二月も半ばだ。北鎌倉の朝は冷え込むからな。それからヤカンにたっぷりのお湯を沸かして、蒸気を立ててやった。  この離れで初めての冬を迎えるのだ。  緊張していた部屋に温もりが戻ってきたのを感じてから、ようやくまだ眠り続ける洋を、この胸にしっかりと深く抱きしめてやった。 「洋……おはよう」 「ん……」  まどろみから目覚める眠り姫みたいだな。君は……  瞼を震わせ、私の存在に気が付いたらしい洋は口元を緩めて、腕をまわして抱きついてきた。 「……丈……おかえり。待っていた」  嬉しそうに縋るように頼ってくれる姿に、愛おしさが募ってしょうがない。

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