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追憶の由比ヶ浜 45

 一時間ほど経っただろうか、もう夜は深まっていた。  やがて……駐車場の扉が静かに開き、丈が現れた。  ドキッ――  あれ? 俺、胸がドキドキしている……何でだ?  数え切れないほど身体を重ね、全てを明け渡した相手なのに、まるで初恋の相手を前にしたような高揚感だ。  いや、丈は初恋の相手だ。  遠い昔から、いつだって丈は俺の初恋。  成就させたくて、重なり合いたくて……ずっと探し求めていた相手だ。  車から降りて、丈を呼んだ。  改めて丈を呼ぶのが、妙に照れ臭くて、思わず「先生」を付けてしまった。ここは病院だから、その方が違和感ないだろう。 「丈……先生」  すると俺たちの間に、一陣の風が吹く。  春風が俺の髪を乱し、心も掻き乱す。 「お帰り、丈!」 「洋……どうして?」  丈は俺の迎えを予期していなかったようで、目を見開いて立ち尽くしていた。 「丈、今日は俺の車で帰ろう」 「あぁ、驚いたよ。とっくに家に戻ったのかと……」  丈が助手席に座るのは珍しい。  丈の手がハンドルを握る俺の手に重なった。 「馬鹿だな。洋……こんなに冷えて。春の夜は、まだ寒いのに」 「会いたくて……ただ会いたかったから」 「ありがとう」  俺たちには、それ以上の言葉はいらない。   「帰ろう、俺たちの家へ」 「ふっ、参ったな」 「なんで笑う?」 「それは私の台詞だった」 「じゃあ、丈も言ってくれ」 「……洋、早く帰りたい」  早く抱きしめたい。抱きしめられたい。  丈の熱い想いが伝わってきて、過敏に反応しそうになった。 「これ以上はまずい。あとでな」  車は夜道を走る、俺たちの家に向けて――  **** 「あぁ、美味しかった」 「良かったよ。丈がお弁当を買ってきてくれて」 「ふっ、でもさ、この弁当じゃ足りないんだよなぁ~」 「えっ、やっぱり? どうしよう? 売店は閉まっているし……」  翠が腕を組んで真剣に悩む様子が、微笑ましかった。 「……兄さん。俺……腹、減った」  わざと腹を擦りながら訴えると、翠が困り果てた顔をする。  可愛い兄さんだな。  そうだ、その調子だ! もっと、色んな顔を見せてくれよ。 「仕方が無いね。流、おいで」 「ワン!」 「えっ……わん?」 「じゃあ、ニャア!」 「にゃあ? ははっ、そんな図体の大きな猫も犬も困るよ。流のままおいで」 「ははっ、何をくれるんだ? 兄さん」  翠は鞄から小さな缶を取り出した。 「これ、母さんが持たせてくれたんだ」 「お? 和三盆か。桜の花びらのカタチで綺麗だな」 「うん、おやつにしよう」  小さな和三盆を握らされたので、苦笑してしまった。  口に放り込めば、淡雪のように溶けてしまう。 「兄さん、足りない」 「じゃあ……もう一つ」 「はは、そうじゃない。こっちがいい」  翠の顎を掴んで、唇をぴったり重ねた。  ほのかに立ち込める和三盆の桜の香りに、酔いしれたくなった。 「あ……、んっ、んっ」  翠も目を閉じて、受け入れてくれる。 「やっぱり美味しいな、ここ」 「流……」  翠が俺の肩に、手を回してくる。  だから、そのままベッドに押し倒す。 「流……」 「なんだ?」 「顔をもっとよく見せてくれ」 「あぁ」  翠は目を大きく見開き……俺をじっと見つめている。 「流は格好いいな」 「何だよ? 突然……」 「僕にはない精悍な顔立ちに憧れるよ。大好きなんだ……」  素直な翠、可愛い翠が、今日はいる。 「今日は甘えん坊だな」 「袈裟を着ていないからかな。ここには流と僕だけだから……その……」  翠は頬を染める。  あぁ成程、分かったぞ。甘えたがっているのだな。  ずっと長男として弟たちを引っ張り、住職として寺を統率してきた翠だって、人間だ。  疲れるし、荷を下ろしたい時もある。愛しい人に身を委ねたい時もある。 「一緒に眠ろう。そして一緒に明日を迎えよう」  煩悩をどこまで封印出来るのか、全く自信が無いが、ここが病院だということは肝に銘じておかないとな。前のように両隣が不在なわけではない。  だから静かに眠るのだ。 「流と一緒に朝日を見たい。この部屋からは、よく見えそうだ」 「分かった、だからもう眠りたいんだな」 「うん、消灯時間だからね」 「分かった。看護師さんも来るし、俺はそこの簡易ベッドに行くぞ」 「ん……流……」 「どうした?」 「この傷が綺麗に治ったら、一緒に海に行かないか」 「いいな。そうしよう」 「じゃあ……頑張るよ」 「おやすみ、翠……」  葉山や宮崎でも、こっそり火傷痕を気にしていた翠。  翠が望むことなら、何でも叶えてやる。  それが俺の生き甲斐だから。  翠は満足気に胸に手を当てて、静かな眠りについた。  この静寂を守りたい。

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