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身も心も 10
「洋くん、さっき惚気ていたよな」
「くすっ、うん……無意識にね。本当に可愛い子だよ」
見送ってくれる洋くんをもう一度振り返り、僕は微笑んだ。
入院の朝……もっと緊張するかと思ったが、意外なほど心は落ち着いていた。
そのまま二人で山門を潜り、石段を降りた。
「翠、気をつけろよ。そこ転びやすいから」
「ん……ありがとう」
そのまま左手にある駐車場へと向かった。
「流……昨夜はありがとう」
「ん? 俺が何かしたか」
「一晩……薙と過ごせて嬉しかった。あの子ね……とても素直に甘えてくれるようになったんだ」
「そうか……それはきっと翠が素直になったからさ」
「素直になると心の襞が広がるみたいだね」
「あぁ、そうなると、相手の気持ちを吸収しやすくなるし、相手も甘えやすくなるからな一石二鳥だ」
「ん……流、ありがとう」
優しい気遣いをしてくれた流の手に、そっと自分の手を重ねた。
「良かったよ、入院の朝……翠の穏やかな表情を見られて」
「僕は……入院中……きっとお前が恋しくなるよ」
「す、翠、それは反則だ。欲しくなる、触れたくなる」
僕もだ、僕も……同じ気持ちだよ。
僕たちの車は、まだ駐車場内に停まったままだ。
ここは寺内の駐車場なので、誰も中に入れない。木立に囲まれた死角になっている。
だから……僕はシートベルトを一旦外し、流へと身を乗り出した。
顔をすっと近づけて無言でそっと唇を重ねると、流はポンっと音を立てるように頬を染めた。
「す……翠‼」
「流? そんなに驚かなくても……朝の挨拶がまだだったから……しただけだ」
「可愛いことを」
「流、僕ね……もう前だけを向いて歩きたいんだ……流と一緒に。だからこの胸につけられた見える過去はもう見たくない。消したいんだ。どうか分かっておくれ」
流が優しく僕を抱きしめてくれる。
「それなら痛い程分かっているさ……翠の気持ち。もう見える傷は捨てよう……なっ」
「んっ」
流が甘やかしてくれると、僕も素直に甘えたくなる。
流の広い胸にもたれて、スンと匂いを嗅いだ。
男らしい流の匂いに混ざるのは、朝から庫裡《くり》で、薙の弁当や皆の朝食を作ったせいか、甘い卵焼きの匂いだった。
「……美味しそうだね」
思わず漏らした言葉に、流が盛大な誤解をしたようだ。
「美味しそう? へぇ、嬉しいな。朝から積極的に誘ってくるんだな。それにしても……美味しそうなのは翠の方だ」
首筋を舌で撫でられ、「あっ……んっ」と変な声が漏れてしまった。
「可愛い声だ……なぁ、もう少し啼いてくれよ」
「ああぁ……駄目だ。これ以上は……」
朝の木漏れ日が降り注ぐ中、僕たちは舌を絡ませる濃厚なキスをした。
「翠……翠、俺の翠……」
「流……僕の流」
互いの名を、何度も何度も呼び合った。
風が吹く度に、石段を覆うように咲いていた八重桜の花弁が、フロントガラスに積もっていく。
「はぁ……あっ……んっ、もう駄目だ」
「悪い、止まらなくなりそうだ」
「もう時間だ……これ以上は、今は」
「分かっているさ、今はここまでだ」
ドキドキと高鳴る胸を押さえながらシートベルトを締めると、車が静かに動き出した。
さぁ行こう!
丈の待つ病院へ――
****
「丈先生、朝からご機嫌ですね」
「そうか」
「さっきから手を何度も見つめて、どうされたんですか」
「あぁ……ちょっとな」
昨日、洋が手の甲に何度も何度も口づけしてくれた。
石段の下で、風呂の中で……ベッドの中で。
おまじないをかけるように熱心に施されたキスによって、私の心と身体は満たされていた。だから重石のようにのし掛っていた緊張感は、すっかり和らいでいた。
海里先生の遺言のような紹介状とカルテを、もう一度確認し、深呼吸をした。
「大丈夫だ。きっと上手くいく」
兄は生まれ変わる。
私の手によって――
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