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身も心も 12

 やれやれ……すっかり遅くなってしまったな。  ミーティングが長引いたいせいで、もう20時近くになっていた。  駐車場に向かって廊下を歩いていた私はふと思い立ち、Uターンした。  やはり翠兄さんの顔を一目見てから帰ろう。 「翠兄さん、入りますよ」 「丈か」  兄さんはひとりベッドにもたれ、読書をしていた。  少しだけ心許ない横顔に、心配が募る。  兄は無防備になった。  感情を押し隠すのをやめたので、気を許した表情を見せてくれるようになったのだ。  不謹慎かもしれないが、私はそれが嬉しい。 「ひとりで大丈夫ですか」 「大丈夫だよ。前回の検査入院よりも、ずっと落ち着いているよ」 「そのようですね。あの、流兄さんは?」 「うん、面会時間が終わった途端、看護師さんに追い出されてしまったよ」 「……そうですか。仕方がないですね」 「規則だからね」  翠兄さんはパジャマに例のジャージを羽織っていた。 「大丈夫だよ。これがついているしね」 「流兄さんのジャージですね」 「うん……部屋着にしていたから、とても肌馴染みがいいんだ」 「よかったです。最強の御守りですね」 「そうだね。あとは丈……お前の存在も僕にとって御守りだよ」  そんな風に言われたのは初めてで、どう答えていいのか分からなくなった。 「丈……僕の弟に生まれてきてくれてありがとう」 「改まって、どうしたんですか」 「いや、何となくお礼を言いたくなったんだ」 「綺麗にします……兄さんの傷は、私がこの手で」 「僕の見える過去を消してくれるか」 「全てを出しますよ」 「格好いいね」  翠兄さんが真っ直ぐに私を見つめ、優美に微笑んでくれた。  ずっと……この兄の、この笑顔に憧れていた。  兄はどんな時も分け隔てなく愛情を注いでくれたのに、私が拒絶してしまっていたのだ。 「兄さんに褒められて、いい気分です」  ニッと精一杯微笑むと、兄さんが「あはっ」と可愛らしく目を細めた。 「丈、お前……もうちょっと口角を上げた方がいいよ」 「え? そうですか」 「うんうん。きっと洋くんもそう思っているよ」 「そうなんですか……心がけます」  ジャージを羽織った兄さんの心は穏やかに凪いでいる。  きっと流兄さんに包まれている気分なのだろう。 「間もなく消灯ですね。そろそろ帰りますね」 「うん、お休み……また明日」    ****  駐車場で……丈の車にもたれて月を仰ぎ見ていた。  いや、正確には翠の病室を見つめ続けていた。  春の宵。  時折八重桜の花びらが空にふわりと舞い上がる。  俺もあの花びらにのって翠の病室に忍び込みたい。  そんなロマンチックなことを考えていると、駐車場出入り口の扉が開き、丈の姿が現れた。 「よぅ!」 「流兄さん! なんだ……ここにいたのですか」 「あぁ、お前の車に乗せてもらおうと待っていたのさ」 「……素直に翠兄さんの病室を見ていたと言えばいいのに」 「ん? 何か言ったか」 「いえ、別に」    流兄さんにも、悲壮な様子は窺えなかった  二人とも前回の検査入院の時よりも、ずっと心にゆとりがあるようで安堵した。  月影寺までの車中、流兄さんは静かに流れゆく景色を眺めていた。  そのまま静かに別れると思ったら、離れへの分かれ道で呼び止められた。   「丈、ちょっと待て。少し母屋に寄って行けよ、母さんも様子を聴きたがっているし」 「そうですね。そうします」 翠兄さんのいない寺は、少し寂しかった。  流兄さんが私を引き止める気持ちも分かる。  私も母さんに聞きたいことがあったので、ちょうど良かった。  翠兄さんにアドバイスされた通り、口角を更に上げてニッと微笑むと、何故かギョッとされた。 「お、お前……微笑む相手を間違えているぞ」 「あ……そうですね。あの……洋と一緒に母屋に行きますよ。きっと離れで私を待っているから」 「そうだな、洋くんと一緒に来い。そんで母屋で一緒に夕食を取れよ。そのさ……俺、ちょっと寂しいからさ」  いつもは豪快な兄の、寂しげな様子。  私が励ましてあげたくなる。  弟らしいことをしたくなる夜だった。

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