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蛍雪の窓 16
「翠、着替えたのか」
袈裟を脱ぎ身支度を調えていると、まだ作務衣姿の流がヒョイと顔を覗かせた。 僕はちょうどスラックスとワイシャツを着た所だった。
「どうかな?」
「いいな、上質な生地にしたから身体にフィットしている。俺がネクタイをしてやるよ」
「自分で出来るよ」
「やらせてくれ」
「あ、うん」
先ほど僕が薙にしてあげたのと同じ事を、流がしたいのだ。
薙は自分で出来るのに、僕にやらせてくれた。
そんな薙の優しさに触れると、ふいに泣きそうになった。
「薙は優しい子だよ。昔も今も」
「あぁ、その通りだ。翠と薙の関係が良好なのが嬉しいよ」
シュッと手際良く、流がネクタイを締めてくれる。
スーツにネクタイというスタイルは滅多にしないので、照れ臭い。
「変ではないか」
「最高だよ。紺瑠璃……紺色の中に滲む華やかさが翠の明るい髪色と白い肌に合っている」
「そんなに褒めないでくれ。恥ずかしい」
「事実さ」
上着に袖を通すと、一気に気が引き締まった。
鏡に映る僕は、すっかり父の顔になっていた。
「次は……流のを見立ててあげるよ」
「頼む」
流の箪笥から、スーツを選ぶ。
したことがないので、ドキドキと鼓動が早くなる。
早速、父の顔が崩れそうだよ。
「翠、まだか」
「迷ってしまうんだ。どれも流に似合いそうで」
「俺は一番目立たないのでいいぞ」
「でも……中身が目立つからなぁ」
「今日は借りてきた猫のように、大人しくしているよ」
「ふっ、流は流のままでいい」
僕が選んであげたスーツを着こなした姿は、精悍とした魅力で溢れていた。
「流はスーツも似合うんだね」
「兄さん、ネクタイもしてくれよ」
「ふふ、いいよ」
思い返せば……幼稚園の制服のボタンを留めてくれだの、上着のボタンを留めてくれだの、流は高学年になるまで、何かにつけて僕を頼ってきた。僕にくっついて離れなかった。
「流、もしかして……小さい時から、わざと?」
「ははは、兄さんの優しさに触れるのが好きだったのさ」
やはり流は狡い。
そんな風に言われたら、言い返せない。
「今日は、翠の愛情に触れたいからだ」
「あからさまだね」
「もう黙っている必要はないだろう。よしっ、お互い支度が出来たな」
「うん!」
居間に入ると、紅茶を片手にテレビを観ていた薙が僕を見て、目を見開いた。
「わぉ! 父さんのスーツ姿って滅茶苦茶カッコイイな」
「そ、そうかな?」
「友達に自慢しちゃいそうだよ。オレの父さんは若くてカッコイイって、なーんてね」
カッコイイだなんて。
薙がそんな風に、僕を褒めてくれるなんて。
小学校高学年になると反抗期に入り、僕と二人きりになるのが苦痛そうだった。だから会っても、あからさまに嫌な顔をされたし、すぐに帰りたいと言われてショックだったな。
よほど頼りない父親に映っていたのだろう。あの頃の僕は彩乃さんの言いなりだったし、自分の意見を持てない情けない父親だったから。
「もう8時か。薙、そろそろ出ないと遅刻するぞ」
「分かった! 今日は流さんもスーツなんだね」
「どうだ? カッコイイだろ?」
「うん! 父さんも流さんもカッコイイ! オレは、オレはどうかな?」
薙が笑顔で聞いてくる。
僕によく似た容姿の薙、しかし性格は僕より大胆で潔い。
「薙~ 俺たちの薙は、いいところ取りで最高にかっこいいぜ!」
流が破顔すれば、僕も釣られて笑う。
「うん、最高にかっこいい」
「二人とも親バカだな~」
流が言ってくれた通り、この子は僕たちの子だよ。
「あのさ……父さん、流さん、今日はありがとう」
「どうした? そんなに改まって」
薙は照れ臭そうに、視線を逸らして口を尖らせた。
「う……嬉しいんだ。想像していたよりもずっと……その……二人が卒業式に来てくれるの」
「薙……」
「とにかく行ってきます! あとで……来てね」
「必ず行くよ。二人で行くよ!」
いよいよ薙の中学校卒業。
門出の朝だ。
蛍の光、窓の雪。
僕と薙のすれ違いは確かに苦い想い出ばかりだが、それを乗り越えたからこそ、この笑顔の朝がある。
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