1514 / 1585

翠雨の後 46

 夜遅く降り出した雨は、明け方には上がっていた。  俺たちの逢瀬を見守るように降り注いでいた雨音は、今はもうしない。  静寂に耳を澄ませば、翠の安定した寝息だけが聞こえている。  この世に翠と俺だけが存在するような、至福の時間だ。  俺は目を細め、翠の腰に手を回し、今一度深く抱きしめた。  同じ男の硬質な身体だ。  だが珠玉の肉体だ。  床の中で、俺を受け入れ悶える様子を思い出し、心に栄養を蓄える。 「よし、小森の衣装を仕上げるか」  俺は翠を起こさぬよう布団からそっとけ出しアトリエに向かった。  渡り廊下を歩くと、新緑の葉が大事そうに水滴を乗せていた。  『翠雨』という言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。  翠雨とは青葉を濡らして降る雨。  日ごとに緑が濃くなる若葉を濡らし、清々しい輝きを与える雨のことだ。  月影寺の長兄『翠』の名は、そこから来ていると聞いたことがある。  ――人々を癒やし、輝きを与える人となれ――  祖父母がつけてくれた名は尊い。  そして俺の名『流』の意味は、  ――周りの人の心が澱むことないよう、流れる水となれ――  更には『丈』という名の由来も知っている。  ――全てを底から支える要、逞しく丈夫であれ――  『大丈夫』の丈、『丈夫』の丈  洋にとって、丈は本当に大切な役割を担っている。  そして俺と翠を結びつけてくれた立役者だ。  やっぱり名前通りだな。  おっと、早くしないと皆が起きてしまう。  朝一番にやってくる小森風太を驚かせてやろうと、アトリエで桜餅色の衣装と向き合った。  翠からパワーを分けてもらったお陰で、やる気に満ちている。  可愛い月影寺の小坊主、小森風太。  お前もまたこの寺に欠かせない大事な一員だ。  小一時間作業に集中し、無事に完成させた。  早く着せたやりたいな。  時計を見ると、まだ小森が来るには早い時間だった。 「よし!」  ざっとシャワーを浴び、作務衣を纏って庭に飛び出した。  丈夫すぎる身体を持って生まれたので、朝から山を駆け巡っても疲れ知らず。  っと、山門に人影発見! こんな朝早く誰だ?  近づけば小森が山門の階段に腰掛け、朝から黄昏れていた。  珍しいな、お前がそんな顔をするなんて。  家や学校では風変わりな子と思われている小森だが、俺にとっては可愛い可愛い弟子だ。 「よっ! どうした? 浮かない顔だな」 「流さん!」 「いい物があるぞ」  アトリエで出来立ての桜餅色の衣装を着せてやると、小森風太は嬉しそうに頬を染め上げ、くるんと回転して、俺に抱きついてきた。 「りゅうさーん、流さん、ありがとうございます。本当に嬉しいです。毎年春になったらこれを着ますね! 来年も再来年も! 流さんにも御利益がありますよ。流さんは今生で……逢いたかった人と巡り逢えてよかったですね。もう離れません。何も起きませんよ」  それは、いつも俺が翠を安心させたくて伝える言葉だった。  もう絶対に離れない。  もう俺たちを脅かすものは何もない。  だから安心しろ。  嬉しかった。  小森風太に断言してもらえて、心底嬉しかった。 「ありがとう。小森風太は立派な月影寺の一員だ」  勢いで作った桜の髪飾りもちょこんとつけてやると、桜餅の精のようで愛らしかった。 「ありがとうございます。わぁ、髪飾りとセットでなんと美味しそうな衣装なんでしょう~ 僕は~ 世界一のしあわせものです!」 「そうかそうか、そんなに喜んでくれるのか」 「はい!」  アトリエでくるくると舞い落ちる花びらのように回転する風太を、いつの間に起きたのか、浴衣姿の翠が目を細めて見つめていた。  朝日を浴びた翠は、そこはかとない色香を纏っていた。 (翠、もう起きていいのか) (流、昨夜はありがとう)  心で言葉を交わせば、幸せが滲み出てくる。  今日も最高の1日にしよう。  翠といられるのだから、最高の1日だ。  日日是好日――       

ともだちにシェアしよう!