4 / 5

第4話

 社内で大岡を見ることはなくなった。越前が資料室に近付くことがなくなったからだ。大岡を囲む部長たちを見たくなかった。本当に見たくないものは部長たちに連れ込まれる大岡かも知れない。 「越後さん!」  探しましたよ、と明るい茶髪が屋上のテラスにやってきて膝に手を当て息を切らす。 「なんだ」 「越後さんの姉ちゃんどうにかしてくださいよ!」  追われていたらしい。季良里は気に入ったものには貪欲だ。求愛(くらぶ)を飼うに至った経緯でも色々あった。 「弟の俺から言うのも躊躇いがあるが、いい女だろう。気は強いが」 「確かにキレーですケド、オレにも権利ってものが…」  社内で前から可愛いと思っていた北条を越前が自宅へ連れ帰り、半ば強制的に泊まらせてから季良里は本格的に北条を狙うことにしたらしい。 「それを言いに来たのか」 「じゃなくて!…大岡さん、辞めるみたいです」  北条の表情が真剣なものになる。ゴールデンレトリバーに似ていた。大岡の顔が脳裏を過ぎる。身体を重ねた後も何事もなく別れて数日。 「…なんでそれを俺に言いに来る」 「フェアじゃないからですよ。悔しいですけど」 「フェアじゃないとはどういう意味」 「公平じゃないって意味です。つまりアンフェア。不公平」  北条は真顔で答えた。越前はやっていられないとばかりに北条から目を逸らし、清々しい青空に向け瞼を閉じる。単語の意味を訊いたわけではなかった。以前、北条にやらかしたミスを北条に真剣な顔でされる。 「あ、そっちじゃない感じでしたか?オレだけ知っていて教えないの、オレめっちゃ卑怯だなって」  北条の顔が幾分緩んだ。苛立ちを煽られているのか、喧嘩を挑まれているのか真意が分からない。おそらく北条はもっと単純なはずだ。もしくはとんでもない策士か。 「それでどうして俺が関係ある。大岡さんと北条の問題じゃないのか」 「オレこの前のコトよく覚えてないんすケド…言ったと思います。大岡さんにとって越後さんは特別なんですよ…多分」 「俺は懐かない猫みたいだ、とは聞いたが。特別ということはないだろう」  セックスもおそらくは妙な空気に()てられたのだろう。もしくは性欲が溜まっていたか。性に淡白そうに見えたが、越前宅で暴発したのかも知れない。 「越後さんはどう思ってるんですか」  拗ねた調子で問われ、越前は横目で北条を見る。 「どうって…尊敬する上司…まぁ立場は複雑なのは分かってるつもりだが…」 「越後さんってホント嫌な人ですね!オレは越後さんの姉ちゃんとの結婚はあり寄りのなしだったですケド、越後さんとは上手くやっていけそうにないです」  北条が越前を指で差す。失礼なやつだな、と思ったが口にはせず面倒臭いという態度を隠しもせず後頭部を撫でる。 「そんなに好きなら部長たちから奪ったらいいんじゃないか。絡む相手を間違ってる。そもそも北条くんは俺にどうしてほしい?好きなのは北条くんだろう」 「オレには出来ません」  北条はしゅんとした。散歩中の犬で見たことがある。飼い主に歩かされている、萎えた顔をした老犬。犬種は違うがそっくりだ。越前の隣にやってきて、柵に腕を掛けると顔を埋めた。 「…大岡さんは俺とお前がデキてると思っているみたいだが」 「え゛」 「懇ろ、の意味がそういうことなら」 「ちゃんと否定しましたよね?」 「…さぁな」  北条は訝しげな目をして越前から2、3歩距離を置いた。先輩たちがやたらと北条に意地悪をすることの理由が何となく分かってしまった。だからこそ優しい大岡に惹かれたのかも知れないが。 「大丈夫なはずですよ…ギリギリ、仲が良いくらいのニュアンスなはず…ギリギリ…」  ボソボソと独り言を虚ろな目で繰り返す北条を面白がっているとテラスの扉の開く音がした。 「サボりか~?減給だゾ~」  聞き慣れすぎた。ぎくりと北条の肩が大袈裟に跳ねて、正気に戻る。季良里に強く抱き締められ、追い回されているのを他人事どころか面白がっていた九嵐(くらん)が北条は季良里のついでに苦手になっていたらしい。 「あ、社長!これはこれは…」 「社長、歩きタバコは感心しません」  片手に持った煙草は今すぐ点火したわけではないらしかった。おそらくここに来る途中から吸っていた。 「おう、余所ではしないって。あと他の奴等の前でも」  北条は越前家に挟まれた。 「恋のお悩み相談ならそいつは相手間違ってるぜ~」 「ちょっと、しゃちょ…」 「ああ、いえ、その…」  社長本人の娘に迫られているのだ。そして九嵐はそれを目の当たりにしている。北条は言葉を探してきょろきょろと大きな瞳を青空へ泳がせていた。 「迫ってくる女の弟に相談たぁねぇ~」  上機嫌で残り短い煙草を吹かす。 「ええっと、違くて!大岡さんのことで…」 「ああ…惜しい人材を手放すことになるわな」  九嵐も知っているらしかった。大事にすんなよ?と北条に軽薄な笑みを浮かべて言った。北条と父のやり取りを越前は無関係な人間かのようにぼんやり見つめていた。何故か胸の辺りが息苦しい。一番近い感覚でいえば、錠剤を上手く流し込めなかった時に似ている。だがそういった明確な息苦しさとは違った。 「楓ちゃん、お前に話があんだよ。北条くんもまぁ聞いておきなさいよ」 「待ってください」  資料室に入る部長たちを呼び止める。まるで連行されているかのような大岡が越前の姿を捕らえた。部長たちが立ち止まる。  君は楓くんだったね、社長のご長男の。1人が問う。この中で最年少の越前は曖昧に笑みを浮かべて資料室の扉を開け、入室を促す。下卑た笑みを浮かべて部長たちは資料室へ入っていく。大岡が酷く傷付いた顔をした。素知らぬふりをして越前は大岡が資料室に入っていくのを見送る。 「大岡さんから手を引いていただけませんかね」  おそらく"いつも通り"に資料室の奥で大岡を取り囲む部長たちに背後から越前は声を掛けた。大岡が泣きそうな顔をして越前を見ていた。越前は冷たい顔で目を逸らす。  何を言っているのかね。君もこれを楽しみにしていたのではないのか。独り占めか、誰がここまで仕込んだと思っている。 「越前くん…待ってください…これはぼくが…」  大岡の言葉を遮った。 「こういうのまずくありません?パワハラですよ」  パワハラのない会社などないよ。若いねぇ。部長たちが嗤う。10月の終わりのカボチャの飾りのようだった。 「越前くん…」 「お願いします」  越前は床に膝を着く。コンクリートが剥き出しの床は汚れている。だが気にならなかった。胸が苦しい。言語化も表現も出来ない漠然とした痛みは検索してもこれだと思う病名が出てこない。 「越前く…」  社長の息子だろう、もっと高い矜持を持て。情けないと思わないのか。この男にそこまでする価値があるか?  コンクリートの感触が額にある。無数の小さな穴を数える。屈辱や羞恥はない。頭を下げるのは簡単だ。 「やめてください!越前くん…ぼくがやるって言ったんです…越前くん…」  大岡が越前へ駆け寄った。 「大岡さんをください、俺に。金輪際彼に性的接触をしないでください。でないなら、こちらにも…」  好きにしたまえ。残念だ。代わりならいくらでもいる。跡取りはホモなのかね。様々な声が降る。若くして、血筋なくしてはあり得ない出世をしている越前を良く思っていない輩は多いだろう。越前はそういった環境を呑み込むしかなかった。革靴の小気味良い足音が真横を通る。二世は陰る、とテレビで張り切り炎上した二世タレントの名前を出して、嘲笑する会話が聞こえた。悔しさも怒りも羞恥もない。コンクリートの冷たく硬い感触。胸は相変わらず、燻っている。大岡の掌が肩を掴んでいる。嗚咽が聞こえる。謝罪が聞こえる。覚束ない。痛みと思っていた自信のない感覚がはっきりと痛みになる。 「越前くん…どうして…」 「胸が苦しいからです」  立ち上がる。額と髪を払って、スラックスを(はた)く。 「…ッ、何か重い病気なんじゃ…」 「かも知れませんね」  大岡が困惑している。その様が何故か愉快だった。心臓の弁に石が詰まっているような感覚がしてならない。漠然としたイメージに過ぎない苦しさだ。だが同時に愉快だった。 「ど、どうしよう…どうしたら…」 「お酒の飲み過ぎですよ。言うほど酷くはありません。それより付き合ってください」 「え」  大岡が越前の手を握っている。他意なく言ったつもりだったが大岡の涙に濡れた瞳が見開かれ、越前を見る。何か変なことを言ったかと越前は反芻し、動きを止めた大岡に首を傾げた。 「泣き腫らした目で戻る気ですか?」  大岡の濡れた目元を指で撫でた。やってしまってから越前は何をしているのかと思って手を引っ込める。 「越前くん…」  出口まで自身の掌に大岡の掌を乗せ、連れて行く。 「顔色悪いですね」 「君が意地悪するから…」  青白い肌に目立つ隈の濃い目元は涙で赤みを帯びている。華奢ではないが大柄でもない大岡の身体を引き寄せたくなった。彼でないと埋まらない気がしたのだ。胸に穴が空いているのだ。実際の肉体ではない胸に。  越前がよく休憩時間を過ごす壁と一体化したソファに大岡を座らせる。前に会った時よりも頬が()けた。 「辞めるんですってね」  大岡が床を見つめている。グレーの床は反射で白い。越前が時々読んだ小説の、床の素材は大概リノリウムだった。この床の素材もリノリウムなのだろうか。大岡の返事を待つ。自身が何を訊ねたのかも忘れていた。 「もう君にまで話はいっていましたか」  大岡は静かに笑う。以前までは穏やかに感じていたそれが今の姿では痛々しい。 「なんでですか」 「…ここでは話したく、ありません。すみません。場所を改めて…」  大岡がそう言うとは思わなかった。だがそれが嬉しい。不思議だった。越前は頷く。 「越前くんの家とは比べるのが烏滸(おこ)がましいほどぼくの家は狭いですが…来ていただけますか」 「ええ、喜んで」  大岡は微かに口元を綻ばせる。無理をしている。分かってしまった。だが引き寄せることは出来なかった。口にすることも。 「ありがとうございます…」  大岡は力無く立ち上がった。  大岡の家は商店街の中にあった。木造の古い駄菓子屋や渋柿色が印象的な八百屋が目に入る。居酒屋の提灯が揺れていた。越前九嵐が憧れて建てた和風だが近代的な素材やわずかに伝統の雰囲気を残した内装、外観の建築物が紛い物に思える。 「古臭いですか?」 「いいえ、素敵です。情緒があって」  大岡の手をさらに強く握った。大岡は恥ずかしがったが越前は気にせず大岡の手を握っていた。誰かに見られたら越前に迷惑が掛かると泣きそうになっていたが黙らせるように指を絡めると諦めたのか本当に大岡は黙った。お互い生温かった指先が今では熱い。 「散らかっていますが、どうぞ」  大岡の家は商店の並ぶ中で突然あった。敷地は広いらしかった。 「お邪魔します」  玄関は引き戸は越前の家とは違いガラガラと大きな音を立てた。脛に柔らかい感触が突然当たる。にゃあ、と小さな声がした。 「やよいひめ」  大岡が呼ぶ。また高い鳴き声が上がる。玄関の電気が点く。三毛猫が越前を見上げていた。 「いちごですか?」 「はい。出来るだけ可愛い名前にしたくて」  越前の家にいるノルウェージャンフォレストキャットの太々しさの欠片もない、慎ましやかな猫だった。越前を歓迎しているらしかった。 「猫飼ってたんですね」 「捨て猫でしたから。他に宛てもなかったので」  喉を鳴らして越前の脚に擦り寄る。越前はやよいひめの顎を撫でる。多恋(たらば)にはない愛想がある。 「どうぞ、こちらへ」  片付いていた。あまり生活感がない。 「一度結婚はしたのですが、2年で終わってしまいました」  越前の探るような視線に耐えかねたのか大岡が突然そう言った。 「バツ1なんです。でもおそらく社長もご存知のはずですから…」  騙していたわけではないと続くのだろう。騙されていた、隠されていたとは思わない。 「そうなんですか。納得といえば納得です。意外といえば意外ですが」  無難な返答だと思ったが声に出してみるとどっちつかずで優柔不断さに自嘲する 。大岡は冷蔵庫にあるもので夕飯を作った。焼き魚とサラダと漬物。どれも美味しかった。大岡を目の前に大岡の手料理を食べられる。胸の異様な痛みが和らいだ。大岡の綺麗な指が箸を扱う様をじっと見ていた。 「何から話しましょうか」  越前にソファを勧め、茶を出すとテーブルを挟んで大岡はカーペットの上に正座する。 「会社辞める話です」  大岡は苦笑する。 「何も決めていないんですけれど、もうあの会社には居られないな…って思ったんです」 「なんでですか?部長たちのことなら…っ、はったりかましたのバレたら終わりですけど…」 「ありがとうございます。越前くんに土下座までさせてしまって…ぼくにそれほどの…」  越前は顔を顰める。 「俺が嫌なんですよ。身も心も薄汚そうなジジイにあなたがいいようにされてるのが気に入らない」  大岡が目を眇めて越前を見つめる。その眼差しが柔らかく、温かいのだが、切ない。 「気持ち悪いかも知れませんが、ぼくはあなたに欲情してしまうんです」 「は」  欲情。浴場。大浴場。海水浴場。越前はヨクジョウと響く単語を思い浮かぶ限り思い浮かべ、漢字を当てる。浴場で、自宅の風呂場で大岡とシたな、と他人事のように思った。 「ぼくには忘れられない恋人がいると話したのは覚えていますか」 「はい」 「君は彼に、よく似ているんです」  越前は表情ひとつ変えなかった。ただ片眉が上がる。 「無理もありません。ぼくの恋人は…あなたの叔父です。遠山(とおやま)風吹(ふぶき)、ご存知ですよね」  遠山は母方の姓だ。風吹(ふぶき)は越前が生まれて間もない頃事故で死んだ、母方の叔父の名。よく似ているとは聞いたことがある。そっくりだと聞いたことが。 「記憶にはありませんが、名前くらいは…」 「初めて見た時、驚きました。どうしてまだ生きているのかと、目を疑いました…ぼくはただあなたが社長の御子息だから意識していたわけではないんです」  手の汗が止まらない。スラックスで拭く。腿の上に置くと、震えていた。 「いいえ、社長の御子息だとか、いつか自分の上司になる人物だとかいう前に、ぼくの頭の中は…彼のことでいっぱいでした。それでも明るい課の雰囲気に救われたんです」  北条の笑顔が一番に浮かんだ。同期や先輩に頭を撫でられたり、積極的な発言で場を沸かせていた。 「君が異動した後、めっきり仕事が手に付かなくなって…課長ではいられなくなったんです。それだけぼくは公私混同していたんです」 「北条に、俺は大岡さんの中で特別なのだと何度か言われたんです。俺はただ自分の複雑な立場のせいだと思っていたのですが…」 「鋭いな。君には失礼な態度を取ってしまいましたね。申し訳ありません」  大岡が頭を下げる。越前はぼうっとしていた。隣にやよいひめが座って、手に首を預けて目を瞑っている。 「あの油絵は家にあった写真に惹かれて描いたものです。行ったことあるとおっしゃっていませんでした?」 「ええ、あの絵を見た時すぐに分かりました。彼が撮った写真を元にしていると…」  思い出に浸る大岡は、美しかった。今までとは違う、鋭さのある確かでない痛み。腿に置いた手に頭部を預けるやよいひめの高い体温と柔らかい毛だけが確かだった。 「重ねてしまうんです、あなたを。あなたの眼差しに焦がれるんです。顔立ちや背格好だけじゃない。声も表情も雰囲気も似ていて…」  俯いた大岡を越前は見つめた。瞬きを忘れた。 「後悔ばかりするんです。彼とは喧嘩別れでした。仲直り出来ないまま彼は…」  越前の記憶では交通事故で死んだと聞いている。夏、海に行こうとしていたと。 「海に行こうってずっと話してて。でも些細なことで前日に喧嘩してしまって。現地集合って決めていたからぼくは1人、海に行ったんです」  大岡は相変わらず穏やかだった。やよいひめの喉の音が消える。やよいひめは完全に寝てしまった。 「何時間経っても彼は来ないんです。海岸を探し回っても居なくて。やっぱり許してくれなかったんだ、って思いました。それでも来てくれると思って待ったんです。でも彼は来なかった。ぼくが水平線を呑気に眺めている間に彼は、トラックの下敷きになっていたなんて…」  懺悔だった。大岡の声が震えはじめた。親戚ではあるが他人事のように聞こえる。顔も声も覚えていない。季良里は覚えているかも知れないが、越前にはない。 「思い出すたびにどうして一緒に行こうって言わなかったのかずっと…なんで海に行きたいなんて言ってしまったんだろうってずっと…考えてしまうんです」  大岡が額に手を当てた。越前はただ黙って聞いていた。今とは違い、通信手段があまり発達していない時代だったのだろう。  そういえば親睦を兼ねて海へ行こうと北条が課の者を誘っていた時に大岡は海は苦手だと言っていた。微かな記憶。日焼けが苦手なのだと笑っていた。北条がすぐに予定を切り替えて河原でのバーベキューにすると張り切っていたが。 「本題から逸れてしまいましたね。正直に言うと、ぼくはどうしたってあなたに惹かれてしまう。それはあなたではあるけれど…あなたに彼の面影を見てしまう。あまりにも失礼で、不毛で、あなただってそんなんじゃ気持ち悪いでしょう」  大岡が顔を上げる。口元は笑っているが両頬が濡れて照っている。 「…別に失礼な人だとは思いません。気持ち悪いっていうなら俺も人のことは言えないから相殺(そうさい)しましょ。不毛ってところは大岡さんの中の話なので俺が口出しできる領域ではないでしょうから何も言えませんが」  両筋がまた濡れる。光って滴る。美しさに見惚れる。触れたい。 「君に抱かれて…違うな…彼によく似た君に抱かれて、やっと自分の中で区切りがついたんです。独り善がりだけど、ぼくは…1人死ぬ勇気もなくて…君には悪いことをしましたね」  大岡が顔を逸らす。顎から落ちた雫がまた光る。嗚咽の小さな声。 「…ノった俺が気持ち悪くないんですか」 「気持ち悪いだなんてとんでもないですよ。ぼくは君に初めて会った時から…」  立つ。立ったのは越前の脚だけではなかった。勃ち上がるだろう。夢の中で性的に搾取した相手に口説かれている。思っていたより身体は若いのかも知れない。20代前半の肉体は、精神面は別としても数字で見るほど若いとは思わなかった。 「俺は夢の中であなたを犯しました。男同士でどうやるのか知らなかったけど、あなたを犯しました。この前もあなたで…まぁ、言いませんけどね」  眉を八の字に下げた大岡が窺うように越前へ向く。大岡に歩み寄った。 「俺に抱かれて区切りがつくならちょうど良かった。俺は…来週から海外です。もしかしたら帰ってこないかも知れません」  大岡が越前にしがみつく。 「いつか言いましたよね。俺も会社の都合で結婚するかも知れないって。俺を気に入った人がいるらしいんです。まぁ、会ってみないことにはどうとも言えませんが」  大岡が越前の首へ腕を回す。抱き締められた。胸へ顔を埋められる。 「こんなところまで、似てるんですね」  紙を握り潰したように眉間を歪めて、大岡が言った。 「彼に懇意の女性がいると知ってぼくは別れを迫って、ぼくは…ッ、ぼくは男同士では無理だって迫って、ぼくは…」  言語としては聞き取れなくなっていた。越前は胸に縋りつく大岡の後頭部に手を回す。背を撫で、強く抱き寄せた。 「最後にお願いがあります。土曜の夜一度、俺に抱かれてくれませんか」  潤んだ瞳が越前を見上げた。大岡は小さく笑んで、目を閉じた。  シャワーの音を静かに聞いていた。遠くの夜景は宝石のようだった。暗いホテルの一室、大きなベッドに座って越前は湯が大岡に降り注ぐのを聞いていた。  指定したホテルに大岡は来た。通信技術が発達した時代に越前は大岡との通信手段がないことに初めて気付き、初めて自ら大岡のいる課に会いに行った。懐かしい同僚がちらほら目に入った。営業部の前を通ると北条の声がした。国ごと離れるのだ。いつ帰って来られるだろう。場合によっては海外に家庭を持つのかも知れない。2通りの将来を描きながら大岡を待っていた。来ないかも知れないと思った。死んだ恋人に似ているどころか親戚に抱かれるなどと。誘っておいて、来ないなら来ないということで割り切れただろうか。 「出ました…」  叔父だが、他人だ。顔も知らない。声も。生き写しのように似ているというが実感がない。大岡がベッドに近付いた。叔父はどのように恋人を抱いたのだろう。おそらく叔父は抱いた側だ。  大岡の肩に触れる。髪から滴り輪郭を辿る水を舐めた。ぴくりと強張った身体を腕の中に丁寧に納める。 「越前くん…」 「俺に抱かれる?カレシに抱かれる?どっちでもいいよ」  大岡の肩に顎を乗せ、耳元で囁く。背中に手が回され、さらに密着した。 「ー…越前くんが、抱いてくれるかい?」  ベッドへ落ちる。押し倒した大岡の首に頭を埋め舐め上げる。大岡の手が背から越前の後頭部へ上がっていく。撫でらている。 「越前く…っ、」 「名前で呼んで?」  耳朶を舐める。耳介を甘噛みしてまた耳朶を口に含んで舌で転がす。 「か、えで…くん、楓くん、」  名を忘れていたらどうしようと要求してから冷えた心地になったが、名を忘れているどころかむしろ呼び慣れている気さえした。 「随分可愛く呼んでくれるんですね」 「っあ、だって楓くんのこと、いつも、呼んじゃうから…っ」  鈍器で殴られる。可愛さという鈍器で頭蓋骨が粉砕された錯覚に陥る。恋人・風吹(ふぶき)ではなく、同じ姿をした甥の名を呼び身体を慰める大岡を想像して両脚の間の大きな種子砲は段階を越えてしまうのではないかという衝撃が走った。 「煽らないでください…っ!」  もう少し焦らして遊びたかった。だが保ちそうにない。バスローブと素肌の狭間に手を差し込む。胸の薄い粘膜の萌芽に触れると大岡は小さく息を吸った。 「楓くん、楓く…」  指の腹の下で芯を持ち、膨らむ2点が愛らしい。片方に口付ける。重なった下半身が擦れ合う。越前の腹や下腹部に大岡のローブが柔らかく当たり、擽ったい。 「かわいい…秋庭(あきば)さん…」  緩く上下する、筋肉質でもなければ弛みもない肌理(きめ)細やかな胸板に唇を落とす。リップ音がたった。 「っあぁ…っ」  バスローブに覆われた小丘。柔らかく揉んだ。掌で撫で回し、形や大きさを確かめる。指で柔らかく擽った。頂を軽くとんとんノックする。 「楓く、もぉ、あっ、ぃやぁ、やっ、」  大岡は身を捩らせる。シーツに皺が寄る。生々しいが、同時に幻想的で息を忘れる。口元を押さえた腕を取って指を口に含む。 「どうしてほしいですか」  大岡の指を舐めながら問う。大岡の身体なら目に入ったものは全て口に入れたい。幼子に戻ってしまう。口が寂しくなってしまうのだ。爪の感触が楽しく、甘皮を舌先で突つく。バスローブの繊維を撫で、弱すぎる刺激を執拗に与えていく。 「さわ、って、触って…ほし……ッ、ンっぁ」 「触ってますよ?」  大岡の顔を覗き込む。大岡は上体を一瞬持ち上げ越前にキスした。くちゅっと湿った音がした。溶けたチョコレートが唇に触れるように蕩ける。 「ちょく…せつ、触ってっ、んぁ、ぁ、だめ、あ、」  意地悪く大岡の言いかけた途中で膨らみを増していくバスローブの中の欲を指で強めに遊ぶ。 「分かりました」  バスローブの前を下まで開く。身動ぐ。胸や腹や臍、薄い下生えに唇を落とす。その度に小さく跳ねる腰。熱へ到達し、根元を優しく()みながら先端へ向かう。 「あっ、きもち、いい…っ、んああ、ン、っく、はぁ」  舌を根元から括れまで往復するたび固くなり大きさを増し、形が変わっていく様が面白く、夢中になってしまった。多少の個人差はあれど同じものを持っているが大岡のでなければこうして見たいとは思わない。目的を忘れて必死になってしまい、大岡の内股に挟まれるまで責め続けてしまった。 「楓く…、ん、」 「秋庭(あきば)さん」  視線がかち合って、どちらからともなく唇を貪り合う。湧水を求める。大岡の手が耳の裏を撫でる。深い口付けるの湿った響きが耳の中で広がっていく。 「楓くん…も、う、ほしい…」 「っ、殺し文句ですね…」  最後に口角にキスすると大岡が脚を開く。大岡が自分で解そうと手をそこへ伸ばす。大岡の手首を掴み、手の甲に口で挨拶する。シーツに下ろし、越前は大岡の秘められた花弁に頭を埋めた。大岡が咄嗟に両腿を閉じようとする。 「セックスは2人でするものでしょう、…慣れているわけではないですが」  大岡の目が潤む。泣かせたいわけではなかった。予防線を張ったわけでも、身の清さを訴えたいわけでもなかった。ただ事実を言うつもりだった。何か気に障ってしまったのかも知れない。 「楓くん」  安らかな目。叔父もおそらく同じことを言い、同じことをしたのだと伝わってしまう。喉に引っ掛かった錠剤がやっと通り抜けた気がした。 「はい?」 「お願いします」  大岡が笑う。輝いていた。力強く頷く。ゆっくり桜色を解していく。ここから鮮やかな赤が漏れることを恐れた。大岡の中の自分は丁寧に上手くやれただろうか。それとも自分の姿を借りた叔父ということもある。薄い筋肉に逆らって大岡の体内に浸入する。強く締め付けられる。楽しくなって深追いする。唾液がシーツを濡らした。 「もう、大丈夫です…から…楓くん、」  顔を上げる。バター犬の本を読んだことがある。身体にバターを塗り、躾られた生物学的な犬に舐め取らせるらしい。それを知ってから越前は犬を見るたびに妙な気分になった。特に犬と飼い主を並んで見るときは。そして求愛(くらぶ)が家に来た。まさか本当に犬にそのような衛生的に問題のあるようなことをさせているとは思わなかったが、バター犬という存在はそれだけ越前の中では驚愕なものだった。だが自分は、バター犬の素質がある。猫っぽいよね。猫系男子ってやつ?。越前くんにはこの黒猫の湯飲みを買いました。 「秋庭さん、じゃあ、挿れます…」 「楓くんは、いいのかい…?」 「秋庭さんのやらしい姿十分ですよ…」  大岡の顔に緊張が浮かぶ。今ならまだ間に合う。大岡が核に触れる前なら。 「でも、いい、ですか…俺で…」  自分が受け入れる立場だったならここまできてこのようなことを問う男は嫌だ。だが弱気になった。大岡の優しさに、甘えさせるはずの自分が甘えてしまう。 「他の誰でもない、あなたに、…ぼくは、ーっ」  それが大岡なりの優しさだったのか、本音だったのか、惚れた男の幻影に対してだったのかは分からない。一気に泣きそうになって越前は大岡の蕾にすももによく似た先端を当てた。挿入は滑らかだったが括れ付近の最も太くなる部分では大岡はわずかに眉根を寄せた。 「あっ、ああっ、楓くん、楓っ…」  唇を塞ぐ。根元まで一気に貫く。下で腰が跳ねた。柔肌が当たる。 「ん、っく、ふ、んぁっ」  大岡の口内を掻き回す。歯列をなぞり、また掻き回す。甘い。思考が溶ける。脳味噌ごと。果汁を注ぐ。大岡の喉が動く。 「秋庭さん…」  唇をもっと上へ。鼻先、眉間、額、湿った髪。震える大岡の手が越前のバスローブを掴んだ。 「あんっ、楓くん、にこうやって、されるのッ、ぁん、ひとりでっ…んです、」  揺さぶられながら大岡はそう告白する。口にされると昂ぶる。奥を突く。目の前で揺れる肌。衣擦れ。浮かぶ汗。 「俺とひとりでセックスするんですか?」  大岡が虚ろな目で天井を見上げる。視界に無理矢理割って入る。 「ん、ッぁアっ、はっ、ぁん、ぁく、ンんっ」  官能に炙られる。大岡を突き上げて、無言になる。快感を求めたい半分、何かを伝えようとして、それが何かを掴みかねる。ただ分かることは、それが何であれ伝えるのは躊躇われるということ。 「秋庭さん」  この身体で姉と結婚するつもりだったのか。恋人の姪と。皮肉な縁だ。恋人の姪と子を成す気だったのか。 「や、だ、胸やだァ…っ!」  熟れた小さな果実を押す。嬌声が高くなり、越前の肉棒を奥へ誘う力が強まった。 「ぃや、だめ、っあん、むね、だめぇっ!」  捏ねて、回して、粘膜に押し付ける。 「胸も感じるんですね」 「っ楓く、っだからっ…、ひとりじゃ、っんく、切なくて…ッ」  下腹部に力を入れて、耐える。まだこの時間を終わらせたくない。けれど身体が限界だった。 「楓くん、いい、よ、楓く、気持ちい…?」 「秋庭さん…っ!」  優しさに切羽詰まる。両手を重ね合わせた。シーツに縫い留めて、腰を速める。大きなベッドが軋んだ。 「っあ、あぁ…、ァんっ、ンっ、楓、くンっ」  掠れた悲鳴は越前の唇に呑まれた。跳ねる身体を胸板でベッドに押し付ける。お互いに汗を浮かべ湿った肌が擦れ合った。掌を潰されるのではないかと思うほど強く握られる。手の甲には爪の跡が付いているかも知れない。その痛みも悦楽へと変換される。何度も収縮を繰り返す括約筋に搾り取られる。下半身を震わせて蠕動する。呼吸の音と微かなシーツの擦れる音。大岡の中を何億もの種で汚す音も聞こえてしまいそうだ。 「楓く、」  大岡の唇をまた塞ぐ。今日何度目だろう。とろんとした瞳を見つめながら眠る。 「会社辞めないでください。何か他に夢があるっていうなら別ですけど」  外はライトブルーだった。ホテルから見える風景はまだ眠っていない。2人でシャワーを浴びながら大岡の中を掻き出しながら越前は言った。シャワーに打たれ、肩を齧ったり、舐めたり、吸い付いたりしながら。大岡は顔を赤く染めて振り向く。 「夢なんてないですけど…もう辞表を…」 「父は辞表の取り下げを待ってます」  大岡が泣きそうな顔をして嫌がったが、出したのは自分だからと譲らず直腸に指を入れて内壁を傷付けないよう白濁を出していく。また欲望が形を持ちそうだった。 「越前くん…」 「俺は海外事業部に異動ですから。海外事業部に異動どころかそのまま海外行きです。あなたが罪悪感を覚える必要はもうないですよね」  掻き出し終わると洗剤を付けてそのまま大岡を洗う。大岡は成すがまま洗われることを選んだらしい。 「…そうですね」 「北条から告白されてましたよね」 「…はい」 「俺は北条からあなたが部長たちに何をされているのか聞きました。あなたが辞めることも、北条から」 「…ええ。…部長たちが君のお姉さんを変な目で見ているというか、酔った勢いだったのでしょうけれど、物騒な話をしていたのをたまたまぼくと北条くんが聞いていたんです。今にも怒り出しそうな北条くんを宥めたいがために頭が悪いぼくは良い案が浮かびませんでした」 「なるほど、それがあれだったんですね。…そうですか、なんといいますか、部長たちもなかなか…」  大岡は苦笑した。そして自嘲しているのか同調した。 「俺は他人の色恋沙汰にあれこれ口は出しませんが、北条はいいやつです」 「知っていますよ。見た目が派手なせいで誤解は受けるようですが、真っ直ぐで元気で素直な子だと思います」  いつの間にか大岡の髪まで洗っていた。大岡も何も言わず洗われていた。 「北条をそういう意味では好きになれませんか」 「そういうわけではないんです。真っ直ぐ過ぎて…ぼくには眩しいんです」  男同士だからと喧嘩別れして恋人を失った大岡。男同士ということに葛藤があったのかは定かではないが告白することにした北条。 「先に進めそうにありませんか」  大岡は俯いた。 「先に進んでいいのか、迷っているんです。都合が良すぎやしませんか、あまりにも」 「北条は受け止めてくれますよ。長い間あなたを一途に思い続けていたんです。いちいち俺に突っ掛かるくらいに。それが墓穴を掘ってるとも知らずに」  何を言っているのだろう。越前は自身の願いとは裏腹なことを言っていると気付いているが止まらない。だがこの男は手に入らない。絶対に。仮に退社し家を捨て、この人と歩むことを選んでも。どうしても恋人の面影が先行してしまう。仮にずっと一緒にいられたとしても少しずつ違いに気付いて、大岡の中の消え失せた理想像から掛け離れてしまいそうで。結局は越前楓の奥に遠山風吹がいて、この人を苛む。 「越前くん?」  自身と叔父と正反対の北条だけがこの人を癒せるのだろう。この人の中から叔父が消えることはないけれど、薄らいでいくのなら。だが悔しい。誰に対してか分からない。仕方のない話だ。似た者に似た感情を抱いて混同し、ついには同化してしまうなど。だが悔しかった。仮に、仮に。仮定が思い浮かぶたび、歯痒い。 「あなたは俺に会うの2度目かも知れないけど、俺はあなたに会うの初めてで」  シャワーの音がした。大岡の表情はやはり優しかった。 「分からないです、あなたがおれに惹かれても、なんで俺があなたに惹かれてるのか」  髪を伝って湯が降る。穏やかな目が見開かれた。年齢の色気が出た目元。だがあどけなく越前には映った。 「…上司としての同情じゃ、ないんですか。…何も出来ない、無能なぼくを憐れんで…」  伝わっていなかった。伝えようとしていなかった。伝えたらいけないと思っていた。だから同じ響きの違う意味に委ねて、逃げていた。 「俺、好きっていいましたよ。好きとは言ってないかも知れませんが、限りなくそれに近いことは言ったような気がします」 「…仕事仲間としての意味だとばかり…ぼくの、独り善がりに付き合ってくれているのかと…」 「そう受け取れるように言ったんです。隠したんです。だって虚しいでしょ、俺は会社のために生きなきゃならくて、それ以外の道はないと思ってた。それだけじゃない。俺がどれだけあなたを想ってもあなたは叔父貴として見る…って、俺が疑ってしまう」 「…ごめんなさい。あんな話、しなければ…」 「とんでもない。ちょうどいいです。重ねてください、俺のこと。俺は海外であなた以外の人と幸せになるから、あなたはもう俺のことも叔父貴のことも昔の人って思ってください」  胸が痛い。だが清々しくもあった。初めてこの男に会った時の胸の温かさの中で微かに痛むだけだ。 →後書き

ともだちにシェアしよう!