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第八章 18
四條とは違う、コーヒーと煙草が混じり合ったような匂いが鼻の中を通り抜ける。政臣の匂いだ。
自分の何処にこんな大胆さと積極性があったのだろうかと驚くほど、気が付くと涼正は自分から薄く唇を開いて政臣の舌を口内へ迎え入れていた。
ぬるりと滑った舌に口内を嬲られ、擦られる。
負けじと絡ませるように舌を動かすと、くちゅ、と淫らな水音が重なり合うそこから生み出された。
もう涼正の頭の中からは、ここがエレベーターの中で人に見られてしまう危険性があることなど飛んでいた。
愛しい人と交わすキスに溺れ、思考までもがドロリと溶けてしまったようだ。
「……涼正」
「ふう……っん……」
優しい政臣の声が、鼓膜に浸透していく。
口づけの合間に涼正も政臣の名前を口にしようとしたのだが、濡れ光るそこから出てきたのは鼻にかかった甘ったるい声だった。
「兄貴ばっかりとしてんなよ」
苛立った鷹斗の声が聞こえたと同時に、涼正は政臣から引きはがされていた。
顎を鷹斗の長い指が掴み、反対側を向かせられる。
口内を占めていたものがなくなってしまい涼正が口寂しさを感じる前に、鷹斗の唇が重ねられていた。
蕩け、焦点の合わない瞳で鷹斗を見つめると鷹斗のぎらついた瞳とぶつかった。茶褐色の瞳の向こう側で、情欲の炎がゆらゆらと揺れている。まるで、涼正を飲み込もうとしているようだ。
「んっ……ぅ」
「もっと、口開けよ……」
グッと顎を下に押され唇が開いたところに、鷹斗の舌がねじ込まれる。
政臣とは違う少し乱暴な、貪るような口づけに眩暈がする。このまま食べられてしまうのではと恐ろしさを感じるほどだが、それが心地よかった。
このまま、二人に身も心も喰らい尽くしてほしい。思わずそう願ってしまいそうになり、涼正はその思考の危うさに我に返った。
先程まで飛んでいたが、ここは誰が来るとも知れぬような場所なのだ。
吐息さえも食い尽くすようなキスに翻弄されつつ、涼正は鷹斗の胸を押し返した。
「なんだよ、これからがいいとこだってのに……」
ぶちぶちと文句を言いつつも涼正の願いを一応は聞いてくれるのか、鷹斗は不服そうな表情で涼正から離れた。
雪崩れ込む空気に若干咳き込みそうになりながら、涼正は二人を見た。
「えっと……、その……ここじゃあ誰か来るかもしれないし……」
行為自体は、嫌ではないのだ。涼正は頬を染めたままもぞもぞと、そう口にした。
二人も涼正のそんな気持ちを汲み取ったらしく、素直に拘束していた腕を解くとエレベーターの扉を開け、あっさりと降りてしまう。
「ほら、さっさと家帰るぞ」
さり気なく手を握られ、引かれるようにして涼正も降りるとそのまま鷹斗は歩き出そうとする。気が急いているのか、涼正を引く力は強い。このままでは、エントランスを抜ける頃には何度か転んでしまいそうである。
それは避けたい涼正は、鷹斗を止めるために声を掛けようとしたのだがそれを遮ったのは後ろから歩いてきていた政臣だった。
「帰る気になってるところ悪いが……一つ問題がある」
「問題?」
「は? そんなもんあったか?」
深刻そうな政臣の声音に、涼正と鷹斗の足が止まった。二人揃って政臣の方へと振り返ると、政臣の端整な顔の眉間に深い皺が刻まれている。
政臣がこんな風に表情を曇らせるのだから、よほど深刻な問題なのかもしれない。
知らないうちに涼正の体が強張り、ゴクリと喉が鳴る。
「……この何日間、涼正の事が心配で家事が手に付かなくてな……」
しかし、深刻そうな政臣の口から告げられたのは何ともほのぼのとした内容で。涼正の肩から、一気に力が抜けていった。
心配して損したと思わなくもないが、大事でなくて良かったと安心した方が大きかった。
鷹斗の方は身に覚えでもあるのか、何処かバツが悪そうに頭の後ろを掻いた。
「あー、そういえばそうだったな……」
政臣と視線を合わせないところを見ると、どうやら政臣の表情を曇らせるほどの惨状を作りだした一因は彼だろうことが涼正には容易に予想が付く。
しかし、涼正は不思議と怒る気持ちにはなれなかった。
それほどまでに想ってもらえていたのだと思うと、寧ろ口角が勝手に上がりにやけてしまいそうになる。
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