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終章 10

 あれから一週間後。涼正は慌ただしくひまわり園の中を行き来していた。  というのも、涼正が二人と気持ちが通じあい抱かれた翌日。どうしても四條に言われた言葉が痼のように胸の中で蟠っているのが気持ち悪く、確かめる為にと涼正が義父へ電話をしたのが事の発端だった。  初めは、透子の実家を知っているかどうか聞くだけのつもりだったのだが。涼正が透子の名を口にした途端に輝幸の方が涼正に会いたいと言い出したのだ。  家に呼ぶ方向で考えていたのだが、「お前の仕事ぶりも見てみたいから」と言われ、気が付くと涼正は押し切られる形で承諾していた。  しかし、生憎と言うべきか。“いつ来るのか”と涼正が輝幸に訊いてみたところ双方の予定が中々合わず、結局ひまわり園が休みの日に輝幸が訪れることとなってしまった。  それが、今日なのだ。  園児達の教室は普段から小まめに片付けているから綺麗なものなのだが、職員の部屋は掃除を怠っている訳ではないのだが綺麗かと問われると手放しで頷けるような状態ではなく。  涼正は一人で片付けようとしていたのだが他にもしなければならないこともあり、とてもじゃないが一人では終わらせられないと判断すると申し訳ない気持ちで眉をハの字に寄せながら涼正は武藤に手伝いを頼んだのだ。  職員の部屋の綺麗に掃き終えた床を涼正が雑巾で水拭きしていると、ゴミ出しに行っていた武藤が戻ってきたのか扉の方から顔を覗かせた。 「武藤くん、そっちは終わったかな?」 「はい、大丈夫です! しかし、急でしたね」  いつもは人懐こい笑みを浮かべているその顔に苦笑いを浮かべながら武藤が涼正の方へと近付いてくる。 「あー、うん。確かにね。なんかすまないね、いきなり呼び出した上に義父さんのせいでバタバタさせちゃってさ」  最後の一拭きを拭き終え、雑巾を黒く汚れた水が入ったバケツの中に放りいれながら涼正は顔を上げ、「ごめんね」と口にした。  すると、武藤は「気にしないで下さいよ! これくらい何ともないですから」と勢いよく頭を横に振って朗らかな笑みを浮かべた。  小麦色に焼けた肌に笑うと見える白い歯のコントラストが爽やかな武藤によく似合っていた。 「それよりも……」  染々とした武藤の声に涼正は首を傾げた。 「ん? どうかした?」 「いや、涼正さんが元気になってくれてよかったなと思ったんです」  安堵の表情を浮かべながら、武藤が指先で頬を掻く。  そんなにも元気がないように見えていたのだろうかと尋ねたくなった涼正だったが、自身でも自覚があるだけにその問いを口にすることはなかった。  そのかわりに、落ち着いた様子で微笑んでみせると「あ、ああ。その節は心配かけて悪かったね。でも、もう大丈夫だから」と口にして水の入ったバケツ片手に立ち上がった。 「いえいえ、勝手に心配してただけですから。けど、本当に一時期は焦りましたよ」 「えっと、ごめん。そんなに迷惑をかけてたなんて知らなくて……」 「あ、いえ! 涼正さんのこともなんですけど、それだけじゃないといいますか……。えっと、俺には弟がいるんですけど涼正さんと同じ時期くらいになんだか悩んでるようで辛そうにしてたんですよ」  普段から明るい武藤がそんなふうに一人で悩んでいたとは思いもしなかった涼正は罪悪感で胸がキリキリと痛んだ。  それだけ、自分のことだけしか見えていなかったということだろう。  涼正は自身の未熟さを噛み締めると共に反省した。 「弟さんは、もう大丈夫なのかい?」  涼正がそう尋ねると武藤の表情がパッと明るくなる。 「あ、はい!! いつの間にか解決したみたいで今は仕事頑張ってるみたいです」  見ている方まで元気になるような、そんな笑顔で答える武藤に涼正は目を細めた。  弟想いの優しい兄の顔をしている武藤が何だか新鮮だった。  想像でしかないが、きっと武藤の弟も武藤に似てくるくると万華鏡のように表情が変わるのだろうか。  そんなことを考えながら、涼正が「そうか、武藤くんに似て真面目ながんばり屋さんなんだろうね」と言うと、武藤がふるふると頭を横に振った。 「ありがとうございます。確かに真面目なんですけど、容姿はあんまり似てないんですよ? きっと涼正さんが見たら驚くと思います」  武藤本人に似ていないと口にされ、涼正がイメージしていた武藤の弟像に靄がかかってしまう。  似ていないと言われると、途端に涼正は武藤の弟像が気になってしまった。 「そんなに似てないのかい?」  気が付くと、思わずそう問い掛けていた。  プライバシーに関わることだろうに、武藤は特に気にした様子もなく笑みを浮かべたまま弟について語り始めた。 「似てませんね。弟……あ、兼良って言うんですけど俺とはまるっきり正反対でこーんな目をしてぴっしりと髪を撫で付けてるんです」  “こーんな”と言いながら、武藤が指先で両目尻をつり上げる。  その表情に涼正は思わず吹き出しそうになったのだが、それよりも意外な名前が武藤の口から出てきたことに気を取られていた。 「え、兼良くん?」 「? 涼正さん、もしかして知っていらっしゃるんですか?」  涼正は曖昧な笑みを浮かべ否定した。 「……ううん。多分、違う人かもしれないから」  兼良と聞いて思い出すのは四條のマネージャーなのだが。  まさか、その人が武藤の弟であるはずがないだろう。そんなの、いくらなんでも出来すぎている。  そんな思いが涼正の中にあって否定したのだが、四條のマネージャーが武藤の弟と同一人物である可能性を否定するには些か弱すぎるのではないかとの考えもあった。  どちらにせよ、この場で確認することは出来ないのだから考えても仕方がないのだが。  涼正はそこで思考を切り上げると「今日はありがとう。急に呼び出して悪かったね、もう上がってくれて構わないから」と武藤の肩をポンと叩いた。 「あ、はい。弟のこと、いつか機会があったら紹介しますね」  きっと、真面目な武藤のことだから近いうちにその機会を作ってくれるつもりなのだろう。  涼正はそんな武藤の事を好ましく思いながら、「うん、会えるのを楽しみにしてるよ」と口にして武藤を見送った。

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