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第一章 3

「……父さん、何時までそこに居るつもりだ?」 「えっ?  あ、あぁ……」  昔とは違う、低い政臣の声に涼正の意識は現実に引き戻された。  切れ長の黒の瞳が〝寒いんだが?〟といわんばかりに睨んでいる。  ――全く……誰に似たんだか  そう思ったものの、目の前の息子を育てたのは涼正に他ならない。  顔こそ似ていないが、確かに政臣ともう一人の息子をここまで育てたのは涼正である。似るならば涼正しか有り得ない。  そんなことを考えていたからだろう、涼正は自然と苦笑いを溢していた。 「……風邪でも引いたのか?」 「えっ?」  ヒヤリと冷たい感触がして涼正はピクリと体を揺らす。何時までも動こうとしない涼正に、政臣は何かあったのかと考えたのだろう。唇が肌に触れてしまいそうな距離に政臣の顔があり、その手は涼正の額にあてられている。  考え事をしていた涼正は何が起きたのか直ぐには気付けなくて、やっと状況を飲み込めてきた頃には涼正の顔は羞恥で真っ赤になっていた。 「だ、大丈夫だ……」  覗き込むようにして様子をうかがう政臣と目を合わせることが出来ず、涼正は急いで距離をとる。  触れられていた部分 が熱を持ち、動悸が治まらない。  まるで自分の体が自分のものではないかのようであることに涼正は困惑していた。 「……そうか」  一方、政臣はこれといって普段と変わったところもなく、一言だけ言い残すと、淡々とした顔でスタスタとリビングの方へと向かっていく。 「……はぁ」  吐き出す溜息には熱が篭っていた。動悸は幾分か治まったのはいい。が、熱は体の奥の方で燻ったままであった。  それを敢えて意識しないように涼正はもう一度溜息を吐くと、政臣のあとに続くようにリビングへと向かった。  扉を開け少し広めのリビングに辿り着く頃には辺りには、おそらく政臣がさっきまで調理していたであろう朝食のいい匂いが漂っている。  少し行儀が悪いとは思ったものの、涼正はコートを脱ぎソファに放ると黒のシンプルなダイニングテーブルと対の黒の椅子に腰掛けた。  目の前にはまだ湯気を立てたままの目玉焼きの乗ったサラダやこんがりと程好い焼き色のついたクルトンがアクセントのオニオンスープの入ったカップ、ふんわりと見るからに柔らかそうなパンと半熟でトロッとしたスクランブルエッグが乗った皿が置いてあった。  体は正直であるとはよく言ったものだ。然程意識はしていなかったが空腹だったようで、美味しそうな朝食を目の前に涼正の腹がくーっと小さな音をたてる。 「美味しそうだな」 「コーヒーでいいか?」 「ん、あぁ」  〝いただきます〟のあいさつもそこそこに、柔らかなパンを一口大の大きさに千切って頬張ろうとしていると、コトンと目の前にカップが置かれた。  カップの中では黒の液体が芳ばしい匂いを放ちながらユラユラ揺れている。手をのばし触れると、とても熱く、外の空気に触れ冷たくなっていた手を温めてくれた 。  涼正がフゥフゥと何度か冷ましながら口許に持っていくと、いつの間にかダイニングテーブルの向かい側に自分の分のカップを持ち新聞片手に座っている政臣がクスリと笑う。 「そういえば、猫舌だったな」 「ん、そうなんだよ……。お前は平気なんだよな?」 「あぁ、平気だ。鷹斗がアンタに似て猫舌だな」  微かに口角を吊り上げ微笑む様は政臣によく似合う。 新聞片手にコーヒーを啜る姿は、今年四十三になる涼正よりも大人びてみえた。  そもそも、そんな風に考えるのは顔の造りの違いがあるからかもしれない。  涼正の顔は整ってはいるが、二重で垂れ目であるため人に柔らかく実年齢よりも幼い印象を与える。髪も割りと短めに切り揃えていて、身長も成人男性の平均身長より二、三センチメートル高く、イメージ的にはゴールデンレトリバーを彷彿させるのだ。  それに対して、政臣と鷹斗の二人は髪型、髪の色、瞳の色こそ違うものの、二重だが切れ長の瞳は人に鋭い印象を与える。それと、大人の色気とでもいうのだろうか。そういったものが滲み出ている。  イメージとしてはトラとかオオカミとかそういった猛獣系のものが浮かび、身長もいつの頃だっただろうか。気が付けば追い抜かれてしまい、今は政臣も鷹斗も涼正よりも十センチメートル近く高い。  長い足を組んだ姿がまた様になっていて、涼正は知らず知らずのうちに政臣の一挙一動に釘付けになっていた。 「……鷹斗を起こさなくてもいいのか?」 「えっ? あ、もうこんな時間か」  ぽーっと息子の色気に見惚れていると、気が付けば随分と時間が経っていた。  そろそろ鷹斗を起こさなくては、大学にも間に合わないし涼正も仕事に戻るのが遅くなってしまう。残りは鷹斗を起こしてから食べようと思い、取り敢えず適温になったコーヒーを飲み干す。そうして、パンを一口頬張ると、未だに眉間に皺を寄せながら難しい顔で新聞を読んでいる政臣をリビングに残し、鷹斗の部屋に向かうことにした。  扉を開けると廊下はひんやりと冷たい。  ブルリと身震いをしながら、階段を上り二階へと上がる。  二階は主に息子達の部屋がある階で、涼正自身の部屋は一階にあるし生活の基盤となる場所は全て一階にあったので、息子達が大きくなってからというもの、鷹斗を起こしに行く時と大掃除の時、あとは何か用事がある時にしか行かない様にしていた。  政臣の部屋なんかは特に年に一度入るか入らないかだ。  まあ、政臣なら親が干渉せずとも全て完璧にこなしてしまうから問題はないのだが。干渉せずにいられないのが今年二十三になる次男の鷹斗だった。

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