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第六章 戸惑い 1

 夢を見ないほど深い眠りに落ちたのはいつ以来だろうか。  深い眠りから引き上げられ、起きているのか眠っているのかわからない曖昧な境界線を意識が漂う。  誰かが涼正の頭を優しく撫でる気配がするのだが、瞼が酷く腫れぼったくて中々持ち上がらない。 「ん……」  漸く持ち上げた時には、涼正の頭を撫でていた手が離れてしまった後だった。  ぼんやりと半透明な薄膜を一枚はったような涼正の視界に、鷹斗の野性味を帯びた端整な顔が映った。 「起きたか?」  向けられたこちらがむず痒いような感覚を覚える笑みを浮かべた鷹斗が優しい口調で尋ねてくる。 「っ!?」  涼正は思わず頷きそうになるが、その瞬間、意識を失う前の行為をまざまざと思い出してしまいベッドの中で涼正の体が後ずさった。  涼正の方へ向かうように鷹斗の手が伸びると、どうしても恐怖心が湧き、涼正は半狂乱になって暴れた。 「いや、だ……ッ……!!」  悲鳴のような叫びが涼正の喉から引き絞られ、振り回した手がベッドサイドのルームランプにあたって激しい音を立て床に転がる。  それでも尚憑かれたように暴れる涼正を宥めるように、鷹斗の両腕が涼正を掻き抱いた。 「こら、落ち着けって。……ほら、今は何もしねぇから。な?」  あやすように涼正の背を撫でながら鷹斗が困ったように笑う。  この手に、この体に、この声に翻弄され望まぬ行為を強いられたのは記憶にまだ新しい。  それでも背を撫でる鷹斗の手つきは泣きたくなるほど優しく、伝わる温かさに涼正は少しずつ体の強張りを解いていった。  勿論、鷹斗に対する恐怖心がなくなった訳ではなく、まだ心の奥に居座ったままだ。  しかし、涼正は鷹斗や政臣が本来優しい青年であることを誰よりも知っている。  ただ、今のこの状態がおかしいだけで、元来の二人の性格はまったく変わっていない。  そのことに気付いた涼正は、先程までとは違い落ち着きを取り戻し、鷹斗の腕の中で顔を上げた。 「……本当か?」  恐る恐るといったように涼正は鷹斗の顔を見詰め、尋ねる。  澄んだ茶色の瞳の奥で立ち昇っていたぎらついた光も、今はナリを潜めているのか。涼正の見詰める鷹斗の瞳は今は湖面のように凪ぎ、鏡のように涼正の姿を映している。  鷹斗が少しでも涼正にとってマイナスになるような解答をしたならば、涼正はすぐにでも突き飛ばして逃げるつもりでいたというのに。  優しくされれば、されるほど、ほだされそうになっている自分がいることを涼正は感じていた。  ――……一体、何なんだ。調子が狂うだろう。  いっそ、もっと手酷く扱われていたのならば涼正は鷹斗や政臣の事を嫌いになることが出来たかもしれない。  けれど、涼正の身に起きているのはその真逆だ。  今だって、起きてみれば丁寧に身体は拭かれ服を着せてあるし、パニックに陥った時には優しく宥めてくれる。  息子達がしたことはいけないことだが、こうも優しくされると、許してしまいたくなる自分がいた。  もう、何も知らずにいた頃のような仲の良いただの親子には戻れないというのに。  ――そうだとしたら、自分達はいったいどうなるのだろうか?  ぐるぐると考えてみても今の涼正には答えが見つけられなかった。 「どうかしたか?」  長考に耽っていた涼正に鷹斗が尋ねかけてきた。背からそっと手を離し、頬を撫でられると恥ずかしさでまともに目をあわせられない。  赤くなった顔を見られまいと、涼正は顔を背け憮然と答えた。 「別に……」 「まぁ、取り敢えず今は何もしねぇよ」  そう言いながら、鷹斗はヒラヒラと目の前で両手を振り無害さをアピールする。  そこまでされると自分は人間を警戒している野生動物にでも見えているのだろうか、と涼正は思ってしまった。 「……それで、政臣は?」  政臣がこの場にいないことに気が付いた涼正がベッドの上で膝を抱えながら尋ねた。  意識を失う前までは政臣もこの部屋にいたはずだ。  それなのに、今はグルリと部屋を見渡しても彼の姿を見付けられない。  だとしたら、キッチンにでもいるのだろうかと予想をつけたのだが、まったく違う答えが鷹斗の口から伝えられた。 「とっくに仕事行ったぜ」  弾かれたようにベッドサイドに置かれたままになっていた携帯を手にとった。  画面を開こうとするが、暗く落ちたままでウンともスンともいわない。  痺れを切らしたようにそれを置いた涼正は確認するように鷹斗を見詰めた。 「もうそんな時間なのか? だったら俺も……っ」  膝辺りに掛かったままの毛布を蹴りあげベッドの上から降りようとした涼正の腕を鷹斗が引き留めた。 「待てって」  掴まれた腕がビクリと震え、涼正の体が強張る。  ――また、犯されるのか?  嫌な想像に冷や汗が涼正の背を伝う。嫌だと首を振りながら鷹斗と距離を置こうとするが、腕を掴まれていてそれすら出来ない。  今度こそ駄目だと、涼正の中で諦めが浮かんだ瞬間、パッと手を離された。  涼正は驚きを隠せないといった表情で鷹斗を見詰める。 「悪いけど、涼正にはここにいてもらうぜ」  そう一言。真顔の鷹斗がまるでそれが決定事項であるかのように告げた。

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