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第六章 4
直線距離にして数分もかからないはずの私室からリビングへ続く廊下を、鷹斗はわざとゆっくりと歩んだ。
何がそんなに楽しいのか分からないが、涼正には鷹斗の何時もの男らしいキリリとした顔つきが、だらしなく弛んで見えた。
時折、わざと鷹斗が腕を揺らすなど色々とあったが、どうにかリビングへと辿り着く。すると、テーブルの上には二人分の朝食が用意してあった。きっと、政臣がいつものように用意していったのだろう。それを裏付けるように、食事の側には書き置きがあり、几帳面な字で〝冷めていたら、温めて食べてくれ〟と書かれていた。
テーブルの上にだけは、いつもと変わらない日常がある。涼正はホッとすると同時に、居心地の悪さを感じた。ここで食事をとる自分達の気持ちだけが、昨日までと違っている。何も知らなかった頃がひどく遠い昔のようで、涼正には懐かしく感じられた。
涼正がテーブルの上の料理をぼんやりと見詰め物思いに耽っていると、頭上で鷹斗の面倒臭そうな声がした。
「げっ、温めなきゃなんねぇのかよ」
ブツブツと政臣に対しての文句を口にしているが、涼正はこればかりは庇う気もない。温めるくらい、今は機械で簡単に出来るのだから無精せずにきちんとやればいいだけの事だ。
思わず呆れた表情で涼正が鷹斗を見上げると、「……やればいいんだろ」と渋々といった表情で涼正をソファの上に降ろし朝食を温め始めた。
二十分後。テーブルの上には、湯気の立ち昇る温かな料理が並べられた。
二人分と皿数が多かったこともあって時間が少々かかってしまったが、空腹は最高のスパイスと言うくらいだからきっと問題ないだろう。まぁ、違う問題はあるが。
涼正は、美味しそうな料理を目の前にしながら憂鬱そうなため息を溢した。
別に、料理に問題があるわけではない。料理を食べる場所に、問題があるのだ。
「鷹斗、頼むから下ろしてくれ」
涼正は後ろを振り向き、鷹斗を見て言った。
何故、こんなに近くに鷹斗がいるのか?
涼正は痛む頭を押さえ、思い返していた。
事の発端は、料理を温め終えた鷹斗が涼正をソファから持ち上げたところからだ。当然、涼正としては椅子の上に降ろしてくれると踏んでいたのだが。鷹斗の行動は涼正の予想を裏切って、思いもよらぬところに座らせられたのだ。
その場所というのが、――鷹斗の膝の上、というわけだ。
軽い女の子や、子供を膝に座らせるならば、まだ理解出来る。涼正も、かつては膝の上に幼い政臣と鷹斗を乗せ食事の世話をしたりしたものだ。
しかし、女子供するのと同じ様に涼正のような成人を過ぎた男を膝に乗せるのは如何なものだろうか?
――……明らかに、おかしいだろ。
もう一度、涼正は重い溜め息をついた。先程まで美味しそうに見えていた料理が今の涼正には色を無くし、ぼやけて感じられる。腹も減っていた筈なのに、空腹感は消え。その代わりに、部屋に戻りたい気持ちで一杯だ。
堪えられないとばかりに、涼正は二度目の懇願を鷹斗にした。
「鷹斗、すまないが俺を降ろして――」
そう口にした涼正だったが、全てを言い終える前に鷹斗に「イヤだ」と拒否されてしまった。
いや、拒否されただけならばまだよかったのだが。何を思ったのか、鷹斗は今、箸を利き手の右手に持ち。左手で涼正の背を支えながら、あれでもない、これでもないと料理を楽しそうに選んでいる。
「ほら、涼正は何が食いたい?」
肝心な事は、聞いていないフリをして強引に進めていくクセに。どうしてこういう、どうでもいい事ばかり涼正の意見を求めてくるのか。
涼正は、自身の思い通りにならない現状に苛立ちを隠せなかった。
「自分一人で食べられる。だから、下ろせッ!!」
落ち着こう、と先程私室で思ったばかりなのに、涼正の喉からついつい尖った声が出てしまった。しかし、苛立ちをぶつけられた当の本人である鷹斗はケロリとしており、頑なに涼正の要求を突っぱねた。
「だから、イヤだって。腰だって本調子じゃねぇんだし、大人しく俺の上に座ってろって」
それを言われれば、そうなのだが。しかし、涼正から言わせれば椅子に座ろうが膝に座ろうが、座ってしまえば何処でも同じで。そうであるので、わざわざ鷹斗の膝の上で食事をする必要性など、まったくないわけだ。
そんな思いからか、涼正は鷹斗を睨み付けながら文句を口にした。
「……ッ、……座るなら普通に椅子の上に座らせてくれればいいのに……」
至近距離で言ったので、それは鷹斗の耳にもしっかりと聞こえていた筈なのに。鷹斗は聞いていないフリをして、涼正の口許に箸を差し出した。
「ほら、アーン」
口許で箸に摘ままれたホウレン草のお浸しが揺れる。色鮮やかな緑色とゴマの香ばしい香りが涼正の鼻を擽り、失せていた筈の食欲を呼び戻した。
――どう、しようか。
グラリと涼正の心が揺れる。
目の前のホウレン草のお浸しには罪はないが、食べさせてもらうのは恥ずかしい。そもそも、手を怪我している訳でもないから自身の手で食べさせてくれたっていいはずなのだが。
モヤモヤとした思いを抱えながら涼正が葛藤していると、焦れたように鷹斗が箸で摘まんだホウレン草を口に押し付けてきたから堪ったものではない。
抗議するように涼正は鷹斗を睨むのだが、鷹斗は知らん顔で〝早く食え〟とばかりに唇にグイグイとホウレン草を押し付ける。始めのうちは、しっかりと口を引き結び抵抗していた涼正だった。が、鷹斗のあまりのしつこさにとうとう根負けした。
それでもやはり恥ずかしさが邪魔をするのか、涼正が頬を赤く染めながら小さく口を開くと。鷹斗は嬉しそうに笑いながら、丁寧に一つずつ食事を涼正の口へ運んだ。
最初、涼正は食べきれないかもしれないと心配していたがどうやら杞憂だったらしい。
政臣の料理はどれも美味しく、あっという間にテーブルの上のものすべて涼正達の腹の中に収まってしまった。
自分でも思っていた以上に腹が空いていたようだ。積み上げられた空の皿と満腹になった自分の腹を見ながら、涼正は絆されてしまっているような気になった。
――しっかりしないと……。
涼正は改めて、そう決意する。胃袋を掴まれていたとしても、それとこれでは話は別だ。
鷹斗と政臣、二人が涼正への気持ちを殺す気がない今。涼正自身で何とかしなければズルズルと引き摺られ、絡め捕られてしまうのが目に見えていた。
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