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第七章 2

 洗面所に着くなり、涼正は蛇口を捻った。直ぐ様、水が涼正の目の前でザァザァと流れだし、それを両手で掬うとそこに顔を浸した。  肌を刺すような冷たさに、涼正は身震いする。 「っ、……」  涼正が顔を上げると、鏡の向こう側に情けない顔をした中年の男が立っていた。青白い顔色、顎に疎らに生えた無精髭に寝癖だらけの髪はあっちこっちに好き放題跳ねている。 「……確かに、これは……酷い、な」  思わず、顔に苦笑いが浮かぶ。政臣の言った通り、酷い有り様である。涼正はシェービングクリームを顔に塗り、ゆっくりと顎にカミソリを当て滑らせた。  音もなく髭は剃り落とされ、ツルリとした肌がその下から現れる様子を見ながら、涼正は考えていた。自分の暗鬱な気持ちも、悩みも髭のように簡単に剃り落とすことが出来ればよいのに、と。 「そんなにボンヤリしていると、怪我するぞ?」 「っ!? いっ……っ……」  急に聞こえた政臣の声に驚いた涼正の手元が狂い、カミソリの刃が薄く皮膚を裂く痛みに涼正は小さく呻いた。右頬に小さいが赤い線が引かれ、ジワリ、ジワリ、と血が滲み出す。 「言ったそばから何をやっているんだ……」  呆れたような政臣の声に、涼正の視線が床に落ちる。 「その……ごめん」  情けないやら恥ずかしいやらで涼正は顔があげられない。恐らく、政臣は声と同じく呆れた瞳で自分を見詰めているだろうと思うと、涼正は今すぐにでも消えたいような気分になった。 「……血が滲んでるな。……んっ……」 「……えっ?」  俯き続ける涼正の頬に、ヌルリとした感触が這う。温かく、湿ったそれが頬に出来た傷の上を動く度、ピリリとした痛みが涼正を襲った。  ――な、にが……起きて……。  涼正の頭は、状況を把握することを拒んでいた。気がつくと、驚くほど近くに政臣の顔があって、涼正はピントがあわないそれを呆けた表情でただ見詰める。 「っ、苦い、な……シェービングクリームの味か」  軈て、政臣がそう呟きながら涼正から離れていった。頬は熱いのに、湿り気を帯びたモノで撫でられた部分は急速に熱を失い冷たさを感じるほどだ。  涼正の目の前でチロリと政臣が口腔から赤い舌を覗かせる。血色のそれが毒々しく、ヌラリと光った。  ――あれに……舐められ、て……。  漸く動き出した頭が状況を把握した途端、涼正は羞恥に襲われ顔を赤く染めた。 「な、な……今、舐めて……」  赤みの差す頬を押さえ後退りする涼正に対して、舐めた本人である政臣は平然としていて「あぁ、舐めた。消毒のつもりだったんだが……。所詮、気休めだ。キチンと治療した方がいい」と真面目な顔で言うものだから、手に負えない。  傷の具合を確かめるように伸ばされた政臣の指をかわして、涼正は勢いよく頭を横に振った。 「い、いいっ、いらない。……血も止まってきてるし、……放っておいても治る」  幸い、政臣もしつこくする気はないのか。「そうか」とだけ言うと、洗面所の壁へと寄り掛かってしまった。出る気がないあたり、やはり政臣らしい。  鏡越しに涼正の視界に政臣の姿が映り込む。涼正が鏡越しに政臣の様子を窺うように、政臣もまた涼正の後ろ姿をジッと見詰めていた。  ――……っ、見られてる……。  髭を剃り終え、寝癖のついた髪を整えようとしているだけなのに。こうも政臣に見詰められていてはやりにくいことこの上無い。涼正はドギマギしながら、辿々しい手付きで髪を解かし始めた。  髪に寝癖直しのスプレーを振り掛けて解かすという簡単な動作であるのに、涼正の動きは油を差し忘れた機械のようにぎこちなかった。寝癖を直すことだけに集中しようとするのだが、視界に政臣の姿が映る度に意識してしまって仕方がない。  涼正は、鏡越しにチラリと政臣を見る。今更気付いたのだが、普段ダークグレーや黒などのシックな色合いのスーツを着ている政臣だが、今日はクリーム色の厚手のセーターにジーンズといったとてもラフな格好だった。  髪もオールバックではなく、下ろされていて。いつもの格好の時よりも、若干若々しく見える。こうして見ると、政臣はやはり自分とは似ていない。鷹斗もそうだが、人を射抜くような鋭い瞳は何故だがわからないが涼正に四條を思い出させた。  ――何を考えてるんだ、俺は……。  きっとそう思ってしまうのは、自分が疲れているせいなのだろう。涼正は、頭を振って碌でもない思考を追い出す。 「涼正、ここ跳ねたままだぞ?」  不意に政臣に話し掛けられ、涼正はビクリと肩を跳ねさせた。少し考え事をしていたせいか、近付いてきた気配に気付くことが遅れた。  気が付くと、壁に寄りかかっていた筈の政臣が、涼正のすぐ真後ろに 移動している。 「……っ、……どこ、だ?」  動揺を気取られないように何気無い様子を装って返事をしたのだが、涼正の身体は思ったよりも嘘がつけず声が上擦ってしまった。しかし、政臣は特に気にすることもなく寝癖の直っていない部分を指差している。  どうやら後頭部の辺りではあるらしいのだが、涼正自身が鏡で確認することは難しく。見当違いな部分を手がさ迷う。 「ココだ。……貸せ、俺がする」  するり、と涼正の手の中にあったブラシが政臣の手によって奪われていく。「自分で出来る」と抗議の声を上げる間も無く、政臣の手が動きだし、軽く頭皮を引っ張られる感覚が涼正に伝わった。 「鷹斗も猫っ毛だが、父さんも猫っ毛なんだな」 「……そう、だな。鷹斗は大丈夫だろうけど、俺の方はいつか禿げないかと心配だよ」  梳き甲斐の無い涼正の短い髪を、これでもかというほど丹念に梳(す)く政臣の様子に、涼正は苦笑いを浮かべながら冗談を口にした。  ほんの数年前までは猫っ毛であってもハリや艶があったから別段気にしたことはなかったのだが、歳をとるにつれそれも無くなってきているから、もしかすると数年後には冗談ではなくなっているかもしれない。未来の自分の姿を想像して、涼正は何ともいえない気分になっていると背後で政臣が小さく笑った。 「ふっ、アンタなら禿げてもきっと可愛いだろうな」  鏡越しに柔らかく微笑む政臣の姿が見え、涼正はカッと頬に熱が集まるのを感じた。 「っ、可愛いも何も……俺は男だ。嬉しくない……」  拗ねた口調で文句を言いながら、涼正は視線を逸らした。しかし、涼正の頬はまだ熱を持ち、心臓が大きな音を立てていた。  ――っ、早く静まれ。  この騒がしい心音を政臣に聞かれてしまうのではないかと涼正はヒヤヒヤしていたのだが、政臣は気付くことなく手に持っていたブラシを洗面台の上に置いた。 「ほら、出来たぞ」  そう言って、政臣は涼正の真後ろから離れる。 「……ありが、とう」  照れていることもあって上手く口が動かなかったが、どうにか不格好な礼を口にした涼正に政臣が片手を上げた。 「別にしたくてやっただけだ。気にしなくていい」  そう言った政臣の表情は、何処と無く機嫌が良さそうで口角が微かに上がっていた。 「さぁ、行くぞ」 「あ、……あぁ」  グイッ、と政臣に涼正は手を引かれ、洗面所から連れ出される。振り払うことも出来たはずなのに、涼正は何故かそうすることが出来なかった。水に触れたせいもあって冷たかった涼正の手に政臣の手の温もりが移っていった。

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