45 / 80

第七章 3

 先を歩く政臣の広い背中を見詰めながら歩き、靴を履き替えて外に出る。涼正と政臣の頭上にはどんよりと鉛色の空が広がっていて、吹き付ける風は冷たく痛く、今すぐにでも雪が降りだしそうな天気だ。 「ほら、乗れ。少し遠出する」  頭上の天気に気をとられていた涼正だが、政臣の声に視線を戻した。涼正が乗るのを待っているのか、政臣の愛車である紺のメルセデスベンツSクラスクーペの助手席の扉を開けている。 「え? 遠出、って……どこに?」  早くしろと政臣の瞳が急かすものだから、涼正は慌てて助手席へ乗り込みながら尋ねたのだが。「着くまで秘密だ」と政臣に短く返され扉を閉められてしまった。  ――着くまで秘密……って……。  一体自分は何処に連れていかれるというのか?  少し前まで涼正の中で渦巻いた不安が、政臣の言葉をきっかけに再び首をもたげてくる。  今からでも遅くないから部屋に逃げ帰った方がいいのではないだろうか、と扉に手をかけた涼正だったがグイッと後ろから肩を引かれ扉から手が離れた。どうやら考え事に涼正が夢中になっている間に、政臣が運転席に乗り込んでいたらしい。  扉をロックされ、いよいよ逃げ場も無くなってしまった涼正は不安そうに顔を曇らせたまま深くシートに沈みこむ。 「不安そうな顔をするな。そんな変な場所じゃない」  政臣がシートベルトをしながらそう言うものの涼正の不安は全く晴れない。寧ろ、積もっていくばかりで頭上の曇天と同じく一面鉛色だ。 「今は大人しく待っていろ」  車のエンジンをかけた政臣がポン、と涼正の頭を撫でた。宥めるような優しい声音が、少しばかり涼正の気分を逆撫でる。 「……」 「拗ねるな。教えてやれないが、悪いようにはしない。安心しろ」  ――安心なんて出来るはずがないだろう……。  涼正は、心の中で苦々しく呟いた。それで何度も裏切られてきたのだ。悲しいが、息子でも信用することは出来ない。  涼正は無言のまま車窓に視線を移した。ゆっくりと車が動き始め、景色もそれにあわせて動き出す。ぼんやりと、ただぼんやりと、家が遠くなる様子を無言で見詰める。実に四日以上ぶりの外出なのだが、嬉しさすっかり消え失せてしまっていた。 「涼正、……起きろ。着いたぞ」 「ん……ん、……ここ、……」  ゆさゆさ、と肩を揺さぶられる感覚に涼正は目をゆっくり持ち上げた。どうやら流れていく景色を見ている内に、眠り込んでしまったらしい。  目の前には涼正の顔を覗き込むように、政臣の整った男らしい顔がある。車内ということもあってあまりにも近いその距離に、涼正はシートに阻まれながらも上半身仰け反らせ目を見開いた。 「っ、……?!」 「起きたか。ほら、着いたから行くぞ」  驚く涼正とは対照的に涼やかな表情の政臣は、車窓の外を指差した。つられるように、涼正の視線も外の景色へと動く。  曇天の下、広々とした駐車場の一画に涼正を乗せた政臣の車は停められていた。辺りには沢山の車が駐車してあり、子連れの家族や若い男女のカップルが楽しそうな声をあげながら行き交っている。 「ここ、は?」 「水族館だが?」 「え、……水族館?」  辺りをキョロキョロ見渡すと、少し遠くの方にイルカをモチーフにした入館門が見えた。よくよく見てみると、駐車場に戻ってくる家族の中にはイルカやペンギンといった可愛らしい生き物のぬいぐるみを抱いた子供もいる。 「……ちょっと待ってくれ、…何でまた水族館に来たんだ?」 「クライアントから謝礼にと無料招待券を貰ってな。使うつもりも予定もなかったんだが、アンタが落ち込んでる様子を見ていたらここに連れてくるのもいいかなと思ったんだ。嫌いだったか?」  「いや……別に」と曖昧な返事を口にした涼正だったが、どちらかというとこういった類いの施設は好きだった。  今は子供達も成人してしまったが、小さい頃にはよく二人を連れて水族館や動物園、遊園地などに行ったものだ。小さい息子たちに挟まれながら、涼正も一緒になってはしゃいでいた事を思い出す。  ――あの頃は可愛かったのにな……。  大好きなペンギンを見て、〝かわいいね!!〟と満面の笑みを浮かべていた幼い鷹斗と政臣が懐かしい。 「父さん、いつまでそうしているつもりだ?」  思い出に浸っていた涼正の思考を今の政臣の声が引き戻す。呆れたような視線を涼正に向け、政臣はさっさと運転席から降りてしまった。 「あ、……わ、悪い。直ぐに出るよ」  涼正も、急いで助手席の扉を開け車外へと出た。長時間車に乗っていたせいだろうか。アスファルトにつけた足がなんとなく違和感を訴えている。まるで、フワフワと雲の上を歩いているかのようで実感が持てない。  ――浮かれている? そんな…まさか……車に乗りっぱなしだったからだよな……。  無理矢理自身にそう思い込ませる涼正の肩を、政臣が軽く叩いた。 「涼正、どうかしたか?」 「え? あぁ、いや……寒いなと思って……」  咄嗟に口から出た誤魔化しだったが外の空気は本当に冷たく、涼正は寒さから逃れるようにコートに首を埋める。吐く息は白く濁り、チラチラと白い雪が雨に混じり降り始めていた。 「なら、これをしてろ」  そう言うと、政臣は徐に自身がしていた黒のマフラーを外し始めた。〝いらない〟と答えようとした涼正だったが、それよりも先にフワリと暖かな布地が涼正の首に巻かれる。

ともだちにシェアしよう!