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第七章 4
視線を少し下ろして見ると、黒いマフラーが巻かれていた。それは政臣が先程までしていたこともあって、少し温かかった。僅かに鼻を擽るこの香りは、政臣のしているトワレだろうか。甘く、それでいて爽やかでしつこくない。何処かで嗅いだことがあるような、優しい香りに包まれ涼正は和らいだ表情を浮かべていた。
――あぁ、そうだ。鷹斗と同じトワレなんだ……。
涼正の中で引っ掛かっていた疑問がゆるり、とほどけた。鷹斗は匂いフェチで好み以外の匂いを家に持ち込ませることを嫌がる傾向にある。政臣に、同じトワレをつけるようにと強要したとしてもおかしくない。
鼻の奥に残る甘い香りに包まれながら涼正は首に巻かれたマフラーと政臣を交互に見詰め、口を開いた。
「政臣、これ……」
寒かったのは確かだが、政臣からマフラーを取るつもりはなかった。それに、涼正に貸した政臣だって同じように寒いはずだ。ならば、返した方がきっといい。そう思い、マフラーを外しにかかっていた涼正の手を政臣がやんわりと止めた。
「寒いんだろ? しておけ」
「でも、そうしたら政臣が寒いんじゃ……」
「気にしなくていい。それよりも、アンタが寒そうにしている方が嫌だからな」
政臣は、それだけ言うと涼正の首元にマフラーを巻き直す。チラリと涼正が視線をあげると目元を和らげ、いつもよりも柔らかい雰囲気の政臣の顔が見えた。
――……今日は珍しい表情ばかり見るな。
いつもあまり表情を動かすことの少ない政臣だけに、たまに見せる笑みは惹き付けられるものがある。今だって政臣の笑みを目にした涼正の心臓は、騒がしく音を立てていた。
――珍しいから、きっと動揺してるだけだ。
ドキドキと鳴り止まぬ胸をソッと押さえながら、涼正は政臣から離れる。丁度マフラーを巻き終えていたからか、政臣にはさして不審に思われなかったようだ。
ゆっくりと歩き始めた政臣の一歩後ろから、涼正もまた水族館へと歩き始めた。付かず離れずの微妙な距離を空けたまま門をくぐり、イルカや魚のイラストが描かれたアプローチを抜けた涼正と政臣は受付でチケットを係員に渡し館内へと足を進める。
そうして順路に沿って薄暗い通路を進んでいくと、小さな水槽が沢山展示してあるスペースに出た。
水槽の中には目にも鮮やかな色の魚達が、ヒラヒラと尾びれを動かしまるでダンスを踊っているかのように自由にその身を水の中でくねらせている。
涼正はその内の一つの水槽の前で立ち止まり、顔を近付けた。小さい赤色の魚が群れをなして水の中を泳いでいる姿は可愛らしく、癒される。
「久し振りに来たな……」
「俺も来たのは……小学校以来だな」
ポロリと涼正の口から出た呟きに返事をしたのは、政臣だった。その声には、懐かしむような色が滲んでいる。
だから、だろうか。涼正は警戒することもすっかり忘れ、純粋にこの気分転換を楽しみ始めていた。
いつの間にか隣に並んで水槽を見詰めている政臣に、涼正は視線だけを向ける。
「あの頃のお前達は可愛かったからなぁ……ほら、ペンギンが好きでヨチヨチ歩く真似をしてただろう?」
そう問い掛けてみたものの、政臣が素直に認めるわけがないことは涼正にも分かりきっていた。ちょっとした、意地悪だ。
案の定、政臣は眉間に皺を寄せた表情でフイッと顔を背け、「……忘れた」とだけ口にすると涼正を赤色の魚の水槽の前に残し通路の先へと進んでしまう。
――……なんだ、……まだ可愛いところもあるんだな。
てっきり成長する過程であの頃の可愛らしさは全て失われてしまったと思っていただけに、涼正は喜びを隠しきれなかった。
その後も、涼正は政臣と二人で静かにだが楽しく館内を見て回った。
半ば無理矢理連れて来られただけに当初は楽しめないと思っていたのだが、大きな水槽を悠々と泳ぐ魚の群れや涼正以上に大きいサメ。それ以上に巨大なジンベエザメ等を見ている内にそんな考えは吹き飛んでいた。
ペンギンの展示ブースを見終えた頃にはすっかりとご機嫌で、頬の弛んだ涼正は不思議な形をしてフヨフヨと水の中を漂うクラゲを見ながらうっとりとした表情で口を開いた。
「可愛かったな、ペンギン」
水中での自在な泳ぎも格好良くて好きだが、あのヨタヨタと歩く姿が堪らなく可愛らしく好きだ。
涼正は、先程まで見ていたペンギンの姿を思い出していた。元々はこれ程までにペンギン好きでは無かったのだが、幼かった息子二人がペンギンの真似といってペタペタ、ヨタヨタと歩く姿を見ているうちにペンギンそのものが好きになってしまった。
隣に並んだ政臣は涼正の様子が気になるらしく、フヨフヨと漂う小さなクラゲ達には見向きもせず尋ねる。
「そんなにペンギンが好きなのか?」
「いや、そう言われると分かんないけど、癒されるだろ?」
涼正が同意を求めるように視線を持ち上げると、近い距離で政臣の視線と絡む。
小さい頃あれほどペンギンが好きだったのだから、すんなりと同意がもらえると思っていた涼正だったが。望む言葉が、政臣の口から発されることはなかった。
もとから近かった距離が更に縮まり、政臣の指が涼正の手に絡みつく。まるで獲物を捕らえたイソギンチャクのように、長い指が涼正の指をガッシリと固定して逃がすまいとしている。
「俺は、アンタを見てる方が癒される。それに……」
不意に声を潜めた政臣の様子に危機感を覚えた涼正は身を引こうとするのだが、捕えられた後では遅く。吐息が外耳に触れるほど近くで、ひっそりと囁かれる。
「ペンギン相手じゃあ、あんなこと出来ないしな」
「っ、ま、政臣!!」
〝あんなこと〟が指すのはここ最近涼正の身に襲い掛かった生々しい行為の事なのだろうと直ぐにわかった涼正は、顔を真っ赤に染め上げ政臣を睨み付けた。
「少しからかっただけだ。騒ぐと目立つぞ?」
政臣に言われ涼正は慌てて周りに視線を巡らせる。声を抑えたつもりだったが、展示ブースは意外に音が響くようで、涼正の声に何事だろうかと数人の男女が振り返り涼正達を見ていた。
恥ずかしくて居たたまれない。今度は羞恥で赤く染まった頬を隠すように、涼正は下を向いた。
相変わらず水槽の中では半透明のクラゲがフヨフヨと漂い、長い触手がユラユラと揺れている。
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