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第七章 5

「あ、あの!!」  不意に女性の声が背後から聞こえ、涼正はボンヤリと青色の世界に浸っていた思考を現実へと引き戻した。咄嗟に繋いでいた政臣の手を振りほどき振り返ると、鷹斗より少し年下くらいの女性が三人立っている。  ――知り合い……じゃ、ないよな?  大学生である鷹斗ならいざ知らず、自分は四十歳を過ぎた中年の男だ。園児達の親御さんを除いて、こんな若々しい女性の知り合いなど一人もいない。  では、政臣の知り合いだろうかと様子を探るように視線を向けた涼正であったが、どうやら政臣もまったく知らないらしい。先程までうっすらと口許に浮かんでいた笑みが、今やすっかりと消え失せてしまっていた。 「もしかして、宇城政臣さんですか? わ、私、宇城さんのファンなんです」  恐らく、最初に声を掛けてきた女性だろうか。栗毛の腰辺りまである髪はフンワリとウェーブがかかっていて、黒目がちの大きな瞳と白い肌が人形のように愛らしい女性だ。その娘がうっすらとピンク色に頬を上気させながら、おずおずと一歩進み出てきた。 「失礼ですが、貴女は?」  仕事用の丁寧な口調で対応する政臣だが、その顔からは感情が抜け落ちている。  隣に並ぶ涼正は、女の子達が恐がりはしないだろうかと心配したのだが。どうやら杞憂だったようだ。 「あ、すみません。私、××大学法律学部法学科四回生の神園(かみぞの)です。教授からよく宇城さんのお話を聞いていて、ずっと憧れていたんです」  神園と名乗ったその女の子は、フワリと花が咲いたような笑みを浮かべてそう言った。  ――××大学って政臣の母校だよな……。ということは、この子達は後輩にあたるのか。  ようやくそこで合点がいった涼正は、閉口したまま女性達と政臣を眺めた。 「そうでしたか。ありがとうございます」  無表情を崩さぬまま、政臣は頭を下げる。たとえ政臣が望んでいなかったとしても、慕って声を掛けてくれた相手だ。もう少し愛想があってもいいだろうにと涼正は思うのだが、笑いながら女性達の相手をする政臣の姿を想像すると胸の奥がチリチリと焦げ付くような不快感を覚えた。 「あ、あの!! 握手して頂いてもいいでしょうか? それとサインも……」  神園が、小首を傾げながら可愛らしい声で頼み事を口にした。仕草にあわせて柔らかな髪と短めの白のシフォンスカートが揺れ、色白の細くしなやかな脚がチラリと覗く。  守ってやらなければ、と庇護欲を掻き立てられる彼女に、政臣は無表情を貫いたままピシャリと言い切った。 「私はアイドルや俳優ではありませんので出来ません。連れもいるので、失礼させて頂きます」  そのまま涼正の手を掴むと神園達に背を向けて歩きだそうとするのだが、神園達も〝憧れだった〟と言うだけあってそこで大人しく引き下がるわけがなかった。 「その、ちょっとだけでもいいんです。お願いします」  うるうる、と潤んだ瞳を向けられて、思わず涼正の足が止まる。相変わらず政臣はこの場から涼正を連れ出そうとするように手を引くのだが、涼正はどうしても彼女を放っておく事が出来なかった。 「なぁ、政臣。ここまで頼み込んでるんだし、握手くらいしてやったらどうだ? ……父さんは終わるまであっちに行って水槽眺めてるからさ」  政臣を見詰めて、涼正はそう提案した。敢えて〝父さん〟と自分で口にしたのは体面を気にしてのことだったのだが。政臣の表情を見た瞬間、それは失敗だったのだと気付いた。  今まで無表情だった政臣の、痛みを堪えるような顔。繋いでいた手から力が抜け、スルリと手がほどけた。涼正は胸が痛かった。けれども、口にした言葉は引っ込めることも出来ない。 「それじゃ、後で」  足早に政臣の隣を通り過ぎながら、それだけを言うと涼正は海月の展示ブースから離れた。 「はぁ……」  海月の展示ブースから離れ、出口に近い場所で涼正は重たいため息を吐いていた。  パシャン、と小さな子供の手が水を掻き回し水面に波紋が立つ。この場所には海洋生物と触れ合うためにと大きく浅めの水槽が置かれ、ヒトデや小魚、ナマコといった生物が入れられていた。  涼正の周りには子連れの家族ばかりで。キラキラと水飛沫を上げながら楽しそうな声を上げる子供達と優しい眼差しで我が子を見守る微笑ましい夫婦を、ボンヤリと見詰めながら涼正は展示ブースの端で壁に寄りかかる。  ――逃げてきてしまった……。  涼正の気を重くさせているのは、そのことだった。今頃、政臣は神園達と話をしているのだろうか。自分から去ったとはいえ、涼正は気になって仕方がない。  先程からチラチラと壁にかけられた時計を見ては、溜め息を吐くをずっと繰り返しているのもそのせいだった。  ――神園って言ったっけ、……あの子きっと政臣の事が好きなんだろうな。  神園を見た当初から、涼正には分かっていた。神園は先輩として政臣に憧れているのではなく、異性として政臣に好意を寄せているのだ。  あんなに可愛らしい子から好意を寄せられるなど我が子としては誇らしいと思うべきなのだろうが、涼正は素直に喜ぶ事が出来ない。  ――こんなの、父親失格じゃないか……。  父親である以上、自分は誰よりも息子達の幸せを願ってやらなければならないのに。それなのに、涼正は今、息子達が自身の手から離れてしまうことを恐れていた。  ――……俺は、なんて身勝手なんだ。  好きだと告げられ、伸ばされた鷹斗と政臣の手を振り払ったのは他でもない涼正自身だ。体面や関係を気にして、常識に縛られ、鷹斗と政臣を傷付け。それでも涼正は彼等を家族という血の檻で捉え、手放すことが出来ない。もはや、これは親の愛情などと綺麗なものではなく、醜いまでの執着だ。  ――俺は……、鷹斗と政臣を……。  今まで目を背けていた気持ちが、ジワリと涼正の心を染め上げていく。 「涼正」  唐突に掛けられた声に、涼正はビクリと肩を震わせた。物思いに耽っていたせいか、政臣が近付いてきたことに気が付けなかった。 「……政臣」  呼び掛けた声が、掠れた。自分を見詰める政臣の顔が、瞳が、酷く冷たく。彼が怒っているのだと、容易に察せられた。 「……帰るぞ」  それだけ口にすると、政臣は強い力で涼正の腕を引っ張る。人の目があるというのに、全く気にしていないのか。政臣は止まることなく、ズンズンと館内を進む。 「っ、……」  涼正は掴まれた手を振りほどくことも出来ず、ただただ政臣に引き摺られるようにして水族館を後にした。

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