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第一章 5
階段を下り、バスルームへ向かう。そうして、洗濯機の蓋を開けるとふわり、と優しい花の香りが涼正の鼻先を擽る。予め朝一度家を出る時に回しておいた洗濯物は、綺麗に洗い上がっているようだった。
それらを大きめの篭に入れるとリビングに取り付けられたガラス戸から庭用のスリッパに履き替え外に出る。
「外は寒いな……」
吐く息は白いが、幸い今日は天気もそれほど悪くない。これならば時間はかかるが室内に干すよりも室外に干した方がよさそうだ。
室内に干すとなると成人男性三人分の洗濯物は膨大な量で、リビングが洗濯物だらけになってしまう。特に、梅雨時期は酷いもので。とてもではないが見れたものではなかった。
その様子を思い出した涼正の表情にも、苦いものが滲んでいた。
冷たくなった指先で篭の中から湿った洗濯物を手に取ると、手慣れた様子でパンッと音をたて皺をのばし物干し竿に手早く干していく。
風が時折吹き、肩よりも短い髪を揺らし涼正は寒さから首を竦める。洗濯物が多かったせいもあって、全て干し終わる頃にはすっかり体が冷えてしまった。
パタパタと風ではためく息子達の洋服は、自身の洋服よりもサイズが大きく。ふと、こんなところでも自身の老いを感じてしまった。
「本当に大きくなったよな…… 」
何時か自分は一人になってしまうのだろうか。いや、もしかするとその日は〝何時か〟ではなく、もう既に近いのかもしれない。
そう思うと、涼正は胸が締め付けられるようだった。
息子達の自立は親である自分には喜ばしい事だが、今の自分では笑顔でその日を迎えてやる事が出来ない。
――駄目な父親だな、俺は……。
息子達を助けていたつもりでいたが、本当に助けられていたのは涼正自身だ。いつもあの二人の天真爛漫な笑顔に救われていた。
確かに仕事は好きだし天職だと思っているが、二人が側から離れてしまったら何を支えにして生きていけばよいのか、未だに涼正は答えを見つけ出せていない。
「父さん、何時までそこにいる気だよ。風邪ひくぞ?」
「ん? あ、あぁ、今いく……」
少し淡い灰色の冬空を考え事をしながらなんとなく見上げていた背後から鷹斗の声が聞こえ、涼正は急いで振り返った。
鷹斗のお陰でズルズルと暗い思考に引っ張り込まれていた意識が引き戻される。
曖昧に笑みながら、涼正は鷹斗のもとへと向かった。
先程とはうって変わり、目の前の鷹斗の姿は政臣と同じように雑誌から抜け出てきたモデルのように洗練されていた。それこそちょっと前まで全裸、次いでパンツ一枚だったとは誰も思わないだろう。
「きちんと着替えたみたいだな。朝食は?」
「これから。父さんも食べるだろ? 兄貴が温め直してくれてる」
鷹斗が顎をしゃくるようにして示した先では、ガラス越しに政臣がキッチンに立ち調理をしている姿が見えた。
「今日は久しぶりに三人揃っての朝食だな」
些細なことではあるが、涼正はそれだけで嬉しくなる。
二人が幼い頃はどんなに仕事が忙しくとも家族揃って食事をするのが約束事だった。しかし、政臣も仕事をしだして互いに仕事が忙しくなってからは、朝食も夕食も家族三人揃うことの方が少なくなってし まった。
「……っ」
嬉しそうに頬を弛める涼正の姿に、鷹斗の手が無意識に伸ばされる。
しかし、つい先程政臣に釘をさされたのを思い出したのか。その手は、涼正に触れることなく指先で空を掻くようにして慌てて引っ込められた。
「ん? どうかしたか?」
「……いや、何にも。埃が付いてたように見えただけだ」
涼正はそれ以上言及することもなく、何処と無く不機嫌な表情でぶっきらぼうに返す鷹斗に続いて部屋の中へと入った。
――さっきのは、一体何なんだ?
涼正は触れかけた鷹斗の指先が気になっていた。
しかし、不機嫌そうなオーラを纏う今の鷹斗に先程の行為の意味を問う勇気は涼正にはない。結局、先ほどのことを追い出すように頭を振ると、明るい声を作って言った。
「やっぱり部屋の中は暖かいな……」
「まぁ、そうだろうな。外、すげぇ寒いからな」
冷たい風に当たりすっかり冷えきった体には室内の暖かさが身に染みる。かじかんだ指に息を吐きかけながら席に着くと、再び温められ湯気をたてている朝食が目の前にあった。
向かいの席にはまだ欠伸を噛み殺しながら、眠い目を擦る鷹斗の姿。台所では青のエプロンを身に付けたら政臣が鷹斗の分の朝食を作っている。
この場に普通の家庭では在るはずの〝母親〟という存在はいないが、涼正にとってはこれが普通で。何よりも、幸せであった。
息子達にも最初の頃は不便な思いも、辛い思いもさせたであろうが、その分他の家庭に負けないくらいに沢山愛情を注いできたつもりだ。
そのお蔭かどうかはわからないが、二人とも曲がることなく人として真っ直ぐに育ってくれた。
テーブルの上のカップを手にとり、優しい味のするスープを飲みながら涼正は満足そうに二人を見つめ微笑む。
二人を育て始めた当初は〝自分は母親代わりになれているのだろうか?〟と不安でたまらなかった。 しかし、今となっては懐かしい想い出だ。
〝お母さんがいなくても、お父さんがいれば僕たちは幸せだよ〟と息子達が言ってくれたから涼正は頑張れたのかもしれない。
今でも何か辛いことがある度に思い出すのが、この言葉だ。
色々と昔の記憶に浸っていた涼正だったが時間がなかったことを思い出した。
音を立ててテーブルに鷹斗の分と政臣の分のサラダが盛られた皿が並べられるのを見ながら、涼正は食事を再開する。口の中に千切ったパンを放り込むと仄かに甘みが広がり、空腹を癒してくれた。
「父さん、スープのお代わりいるか?」
「ん、あぁ、悪いな。もらうよ」
政臣が涼正のスープのカップが空になっているのに気付いたのか、漸く一段落つき座った筈の席を立ちカップに手を伸ばす。
「あ、兄貴。俺の卵半熟にして。あとコーヒーくれよ」
「……お前は自分ですることを覚えろ」
立ち上がった政臣に丁度いいとばかりに鷹斗が注文をつけるのだが、呆れたような眼差しだけを残して政臣はキッチンへと早々に引き上げてしまった。
「なんだよ、ケチ」
政臣の背中に向かってぼやく鷹斗のまだ子供っぽい様子が可笑しくて、涼正は咀嚼途中だったサラダを吹き出しそうになる。
「……笑うなよ」
「いや、悪い」
「全然悪いと思ってないだろ」
こんな他愛ないやり取り一つ一つが愛しい。
何時か手離さなければならないと知っていても、〝今はまだ〟と免罪符のようにその言葉を使っては涼正は意識的に考えるのを先延ばしにしていた。
「ほら」
顔を上げると政臣の男らしく骨ばった手が目の前にスープカップを置いて、離れていくところだった。
飴色の澄んだ液体がカップの中で誘うように揺れ、涼正は誘惑に絡めとられるようにソレを手にとった。二杯目だというのに、喉を過ぎていくスープは飽きることがなく。温かさが身体中に染み渡っていく。
「父さん、美味いか?」
今度こそ、椅子に座り腰を落ち着けた政臣が意識して見なければ見過ごしてしまうような微かな笑みを浮かべた。
「あぁ」
料理の評論家ではないから詳しい味の説明など出来ない涼正だが、文句無しに美味い朝食だったのは確かで、満足そうに頷いた。
鷹斗も、結局政臣が用意したらしい半熟のスクランブルエッグとトーストを満足そうに頬張っている。
目の前の手付かずのカップには、淹れたてのコーヒーが芳ばしい匂いを放っていて、政臣との会話を思い出した。
目の前の鷹斗が丁度スープに息を吹き掛け、冷ましている。
「猫舌も大変だよな」
ついその姿が微笑ましくて、徐に話題をふった涼正だった。が、すぐにそれが誤った話題の選択だったと思い知らされた。
スープカップの白い陶器から口を離した鷹斗が涼正へと茶色の瞳を向ける。
「ああ、うっかり熱いのを食べた日なんて、すっげぇ最悪。舌が痛くてディープキス出来ないし」
おどけるように薄い唇から覗かせた赤い舌が鮮烈に涼正の目に焼き付いた。
――あの舌で……。
あの扇情的な舌で女性と濃厚なキスを交わす息子の姿が脳裏に浮かび、涼正は胸が苦しくなった。
「ディープキスって、お前な……」
どうにか平静を装ってみたが、気付かれなかっただろうか。後ろめたい気持ちを誤魔化すように、スープに口をつけようとした涼正だったが――
「父さんもする? ディープキス。俺、上手いよ?」
「……なっ!?」
冗談で言ったであろう鷹斗の誘いに、涼正は危うくスープを溢しそうになった。
ニヤニヤと唇を吊り上げ笑う鷹斗の姿が小憎らしい。「からかうな」と言おうとした所で、今まで静かに新聞に視線を落としていた政臣が顔を上げた。
「鷹斗、アホなこと言ってないで早く食べろ。父さんも、アホに付き合ってると遅れるぞ」
政臣の視線を追うように涼正も時刻を確認する。リビングの壁にかけられた時計は八時三十分ジャストを指している。
これ以上ゆ っくりしていては完璧に間に合わなくなる時間だ。
涼正は慌てて残りのスープを飲み干すと、椅子から立ち上がりソファに放ったコートを拾った。そして、袖を通しながら後ろを振り返る。
「鷹斗、先に車に乗ってるから。急いで来るんだぞ?」
それだけ告げると涼正はさっさとリビングを後にした。
リビングを出る間際に見た、政臣のゆっくりとコーヒーを口に運ぶ姿が瞼の裏に思い出される。対照的に、鷹斗は慌ててパンを口に詰め込んでいたが、喉に詰まらせていないだろうか。
少し心配になったが、頭を横に振り空っぽにすると、涼正はそのまま車へと向かった。
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