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第一章 6
玄関から外に出ると途端に寒さが涼正を襲った。今まで暖かな室内にいた分、少しの寒さでも堪える。頭上に広がる灰色の空は、先程涼正が洗濯物を干していた時よりもどんよりとしていて、今にも雪か雨が降りそうな気配だ。
――早く車の中に入った方がいいな。
そう思った涼正の歩調が早くなる。小さな庭を通りすぎ、車のドアの鍵を開けると中に滑り込むように入った。
風が遮断された分、外よりも暖かい。しかし、暖かいといっても所詮は外を比較対象にした時の感想であって、寒いのには変わらない。涼正はかじかむ指でキーを差し込み、エンジンを回すと真っ先に暖房をつけた。
途端、暖かい風が送風口から吹き付け涼正の短い髪を揺らす。
「ふぅ……」
暖かさに気持ちも緩んだのか。涼正の唇から小さく空気が吐き出され、車内の空気に混じって消える。
瞼の裏には、まだ鷹斗の赤い舌がちらついて消えないでいた。
息子はどんな風に女性を抱くのだろうか?
考えないようにすればするほど気になってしまう。
――……どうかしてるな。
涼正の柔和な顔に似合わない、自虐的な笑みが浮かんだ。疲れているんだと、自身に言い聞かせていた所ですっかり身支度を終えた鷹斗が助手席に滑り込んできた。
「忘れ物は?」
何時もの癖で問い掛けた涼正に、鷹斗は少し不機嫌な様子で口を開く。
「ない。兄貴にも散々聞かれた」
確かに、政臣の性格なら言いそうだ。自分よりも時折父親らしい一面を見せる長男を思い浮かべた涼正の顔に、笑みが浮かんだ。
「そうか」
そう短く返した口調も、心なしか柔らかい。
昔と違い頼りになる長男の成長ぶりや、まだ子供だと思っていたのに、ふとした瞬間に大人びた顔を見せる鷹斗に嬉しさを覚える反面、寂しさも感じていた。しかし、それが成長というものなのだろう。
涼正はギュッとハンドルを握ると、静かに車を発進させた。
数分も走らせていると、窓の外の景色は閑静な住宅街から姿を変えビルの乱立する街中へと変わる。あれだけ渋滞を避けようとしていたのに、今日は運悪く捕まってしまったようで数メートル進んでは止まるを繰り返していた。
隣の鷹斗をチラリと盗み見る。
鷹斗もこの渋滞に辟易しているようで、頬杖をついて窓の外を眺める精悍な横顔の眉間に皺が寄っていた。
「何?」
不意にこちらを向いた鷹斗と目があった涼正は驚いて顔を逸らすと、手元のハンドルを握り締めた。 真っ正面を向いた涼正の横顔に鷹斗の訝しむような視線が突き刺さり、痛い。
「いや、何も……」
素直に答えることを躊躇った涼正は、それだけを小さく呟いた。しかし、それで鷹斗が引き下がる訳がなかった。
「……へぇ、てっきり俺に見惚れたのかと思ったんだけど。勘違いだったか」
クッ、とつり上げられた唇。そこから紡がれた心情を見抜いたような的確な言葉が、涼正の心に入り、掻き乱していく。
「違う」と、言いたいのに。動揺している頭では、薄く開いた唇が震えるだけで上手く言葉を紡げない。
気まずい車内の雰囲気に息が詰まりそうになった時、唐突にならされたクラクションで涼正はハッと我に返った。真っ正面を見てはいたが、気も漫(そぞ)ろだったお蔭で信号が青に変わっていたのに気付けなかったのだ。
――助かった、けど。しっかりしないとな……。
涼正は気まずい雰囲気を壊してくれたクラクションに感謝すると同時に、自分に喝を入れ直した。
鷹斗を送ってからも仕事が待っていることを考えると、何時までも息子のことで頭を悩ませているわけにもいかない。
気分を変えようと、涼正はラジオをつけた。 ザー、ザー、と雑音を拾った後。ラジオからは軽快な音楽と、女性の声で滑らかな日本語が流れ出した。
『今日は、俳優の四條 翔(しじょう かける)さんに起こし頂きました!! ありがとうございました~』
つけたのはいいが、どうやら丁度終わった所だったようだ。また雑音を拾い始めたラジオを消した涼正は、四條と言う聞き覚えのある名前に頭を傾げていた。
「四條……、四條……。何処かで聞いた事があるんだよな……」
もう少しでわかりそうなのに、届かないもどかしさに涼正は歯噛みした。喉まで出かかっているのに、思い出せない。 眉間に皺を寄せて考えている涼正の隣で、鷹斗が再び窓の外に視線を落としながら呟いた。
「父さんが見てる火サスによく出てる奴」
指摘された途端に思い出した。
確か、演技派俳優として名高く、その演技力は海外のメディアからも注目されていると雑誌に書かれていたはずだ。実際、テレビを通して彼の演技力の高さを知っている涼正はファン、とまではいかないものの、彼の事が嫌いではない。
「あぁ、それでか。結構いい演技するんだよな、あの人」
肯定的な評価が口から出た涼正に対し、窓の外を見詰める鷹斗は何処と無く不機嫌そうだ。
どうしてだろうか、と思う涼正の心を見透かしたようなタイミングで鷹斗が口を開いた。
「俺は、ソイツの事嫌いだ。なんか、胡散臭い」
それだけを口にすると、それきり口を閉ざしてしまう。
結局、それきり黙ってしまった鷹斗は大学に着くまでの間、口を開く事がなかった。
「それじゃあ、遅くなるようだったら俺か政臣に連絡をいれるんだぞ?」
助手席から降りようとしている鷹斗に、涼正はそう言葉をかけた。二十三になる男にここまで過保護になる必要はないと思ってはいるのだが、長年してきたことをやめるとなると中々難しい。
「わかってる」
聞き飽きたと謂わんばかりの顔で鞄を片手に引っ提げると、鷹斗は涼生から逃れるように通学者の中にと混じって消えていった。
鷹斗が消えた方向にいる学生達の後ろ姿を見詰める涼正の唇に、小さな笑みが浮かんだ。
「まったく……」
そう口にする割に、見詰める涼正の瞳は柔らかい光を宿している。 どうやら、手のかかる子ほど愛しいと言うのは本当らしい。だからといって、手のかからない政臣が愛しくないというわけでもないのだが。
何だかんだと構ってやりたくなるのは、やはり鷹斗が末っ子だからだろうか。
そんな事を考えていた涼正だったが、携帯にセットしていたアラームが聞こえ、学生達から視線を剥がした。渋滞のせいもあったが、けっこうゆっくりしてしまったようだ。
――まずいな、遅くなりすぎた。
予定ではもう少し早く戻るつもりだったが色々とあって狂ってしまった。きっと今頃は涼正の代わりに、あの人の良さそうな保育士―武藤君―が園児達に揉みくちゃにされているに違いない。
その光景が瞼の裏に浮かんだ涼正は、脇道に停めていたBMWを発進させた。
先程よりも車の少ない道路を、安全運転を心掛けながら。そのまま園児達の待つ、ひまわり園へと向かう。
運転の合間。隣に視線を向けた涼正は、空っぽの助手席を見詰め苦笑いを溢した。
――寒いし、広いな。
暖房の入っている車内が人一人いなくなったくらいで寒くなるはずもないのだが、涼正の左側、ぽっかりと空いた助手席部分から熱を奪い取られていく気がする。
所詮錯覚だとわかってはいるものの、そう考えた瞬間本当に寒く感じるのだから、自分は単純なのかもしれない。涼正はブルリと身震いをすると、さらに暖房を強めた。
送風口を下に向けているにもかかわらず強い温風が顔に吹き付け、瞳が乾燥して痛い。しかし、構わずに車を走らせた。
交通量の多いバイパスから外れ、入り組んだ路地を慎重に走らせること十分。涼正は何時もより二十分遅れで、ひまわり園の駐車場へと辿り着いた。
「ごめん、遅くなったね」
駐車場から小走りで戻ってきた涼正は弾んだ息を吐き出しながら、子供達にあちこち引っ張られてヨレヨレになっている武藤に声をかけた。
「あ、お帰りなさい、宇城さん」
弾かれたように上がった武藤の顔にあからさまに安堵の色が広がった。涼正が一度家に戻った後、よほど大変だったのだろう事がそれだけで涼正に伝わった。
武藤の足元では、年齢もばらばらな子供達が彼のエプロンや袖をグイグイ引っ張っている。小さい子供のパワーというのは、結構侮れないもので、毎日相手をしている涼正でも帰り際になるといつもヘトヘトだった。
「あっ! せんせぇーだ。おかえりなさいっ!!」
武藤の袖を引っ張っていた一人の男の子が、涼正の存在に気付き駆け寄ってきた。舌足らずな声に和んでいる涼正だったが、真っ正面からぶつかるような勢いで抱き着かれたのには流石に驚いた。
衝撃でふらりと揺らぐ体を何とか踏ん張ることで押し止め、抱き着いてきた子供へ笑みを向ける。
「こら、いきなり飛び付くとあぶないだろ?」
諫める声は優しく、とても叱っているようには見えない。園児達も涼正は滅多に怒らないとわかっているからこそ、 こうやって思いきった行動をとったり、甘えたりするのだ。
子供というのは幼くても、人間を観察することに長けているのかもしれない。
ちゃんと自分を愛してくれる人間か、そうじゃないのか。それを判別した上、前者になら何処まで甘えていいのか探るように少しずつぶつけてくる。
――鷹斗や政臣も、よく抱き着いてきてたな。
男らしく成長した息子達にも、目の前の子供のような時代もあったのだ。
幼い頃の無邪気に笑う鷹斗の顔と、感情を出すのが苦手だった政臣のぎこちない笑顔が忘れられず、今でもふとした瞬間に思い出す。
『父さん』と、左右から手を引っ張られて歩いたのは、もう十数年も昔の事だ。息子達が大きくなった今、そんな事は二度とないだろう。
クイッと手の指を引かれる感触に、感慨に浸っていた涼正は目の前に意識を戻した。
繋がれた、いや、握られた指先から辿っていった先。黒々とした瞳が心配そうに涼正を見詰めている。
「せんせぇ、どうしたの? おかぜひいたの?」
「え、あぁ、大丈夫だよ。ほら、皆と一緒に部屋に入ろうか」
「はーい」
しっかりせねば、と喝をいれた矢先に子供に心配されていれば世話はない。
涼正は頭を振り、冷たい空気を吸い込むと、男の子の背を優しく押し。先に部屋の中へと入っていった武藤の後を追うように、歩き出した。
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