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第一章 7

「それじゃあ、また月曜日にね」  大きく手を振り、母親に手を引かれながら帰っていく最後の一人を見送ったのは、灰色の空が暗い濃紺に染まってから随分経った頃だった。子供達が帰った後の静まりかえった部屋をぐるりと見渡すと、壁際の天道虫のデザインの時計が目に入った。  針は丁度、午後十時を指している。 「今日は何時もより早めに帰れそうですね」  他の部屋の戸締まりを終えたであろう武藤がいつの間にか涼正の背後にいて、伸びをしながら、そんなことを言った。  その顔には笑みとともに微かに疲労が滲んでいる。同じような顔をしているであろう涼正も、凝った肩を揉み解しながら口を開いた。 「明日は休みだし、早く帰って寝て。疲れをとるにかぎるよ」 「え、寝ちゃうんですか? 飲みに誘おうと思ってたんですけど」  残念そうな武藤の声にぐらりと心が揺れるが、「もう歳だからやめとくよ」と冗談を口にしながら断った。  幸い、武藤も無理強いする気はなかったのか。「そうですか。また、誘いますね」と軽い調子で答えてくれたので、助かった。  そのまま小さく頭を下げ部屋を出ていく武藤を見送ると、部屋に一人になった涼正はエプロンを外しホッと息をつく。  体はクタクタだが、心は充足感に満たされていた。  武藤の誘いは断ったが、この充足感を肴に缶ビールか何かで一杯やりたい気分だ。  ――鷹斗と政臣のも飲むかな?  三、四年前に成人を終えた息子達は、もう涼正とともに酒を酌み交わせる歳だ。しかし、そういった機会は殆どなく、涼正は政臣や鷹斗の酒の好みや強さを知らない。  携帯のカレンダー機能を出して、日付を見た。今日は土曜日で、明日は日曜。鷹斗の大学も休みだろうし、政臣もさすがに日曜まで仕事はしないだろう。 「よし、買って帰るか」  口に出すと、それが次にとるべき行動なのだと思えてくるから不思議だ。事務仕事は明日に回すことにしようと決めた涼正は、手早く園内の見回りを済ませ、鍵をかけると、軽い足取りで駐車場へと向かう。  BMWに乗り込もうとした所で、携帯の着信音がコートの中から鳴った。暗闇の中、光るディスプレイには―政臣―と表示されている。  涼正は直ぐに通話ボタンを押し、携帯を耳に押しあてた。 『もしもし、父さん?』 「ああ。どうしたんだ、政臣?」  政臣から電話があるのは珍しいから、何かあったのではと身構えていたのだが、普段通りの口調に涼正は胸を撫で下ろす。  そんな涼正の内心など知らない政臣は淡々と話していく。 『いや、鷹斗は俺が回収したからって伝えようと思っただけだ。もう終わったのか?』  政臣の後ろで、『回収って、……俺はモノじゃない』と不機嫌そうな鷹斗の声が聞こえて涼正は吹き出しそうになったが、寸でのところで堪え、携帯を握りなおした。 「あぁ、もう帰るつもりだ。お前達は、もう家なのか?」 『ああ。さっき帰ってきた』  素っ気ない短い言葉が帰ってきて会話が途切れる。  「そうか……」と続けそうになるも、これも直ぐに途切れるのがわかっているだけに口に出来ない。  あれでもない、これでもないと考えている涼正の努力を嘲笑うかのように、政臣の声で『それじゃあ、飯用意して待っとく』とだけ残して一方的に通話は切れた。 「まったく……」  苦々しい気持ちの滲む言葉がため息と一緒に、体の内から外へと、押し出すように吐き出される。前々から政臣の愛想の無さはしっていたが、これで本当に仕事が出来ているのかと涼正は心配になった。  ――まぁ、政臣も立派な社会人だし。仕事の時は、違うんだろう。  鷹斗はまだ学生だから少しくらいはいいとしても、政臣は成人しているし、弁護士といった立派な職にもついている。いつまでも親が関わっている方が可笑しいだろう。涼正はモヤモヤと胸にわだかまる不安や心配をコートの裾を叩く次いでに払い落とし、振り切るように車の中へと乗り込み、扉を閉めた。  ――今日は、飲んで忘れるか。  ウダウダと考え込んで、深みに嵌まってしまいそうな時は何も考えられないくらい飲むに限る。  涼正はそんな結論を出すと、車のエンジンをかけ、家に向かって走らせ始めたのだった。 「ただいま」  玄関の扉を開け放った涼正は、両手に酒類がたくさん入って、今にも破けそうなビニールを提げ、ふらつきながら家の奥に向かって声を張り上げた。  飲みたい気分だったからといって手当たり次第に買ってみたのだが。 ビニール袋を持ったときに、そのあまりの重さに買い込み過ぎたと反省した。  ――まぁ、今日一日で飲めっていうわけじゃないから、いいか。  酒の類いは生モノと違って賞味期限が長いのがいい。涼正は普段酒をあまり飲む方ではないが、特別嫌いでもないので、あって困るものではないのだ。  指に食い込むビニール袋が痛いが、リビングにつくまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせながら荷物を持ち直した時だった。  玄関近くの階段から降りてきた鷹斗が目の前に立ち、涼正の両手に視線を移すと、軽々と荷物二つを奪っていく。 「これ、リビングに持っていけばいいんだろ?」 「あ、あぁ。……重くないのか? 一個、持つぞ?」 「ん? いや、別に。鍛えてるし、まだ軽いほうだ」 「スゴいな……」  重さを微塵も感じさせない鷹斗の様子に、涼正は思わず舌を巻いた。涼正も日々子供達の相手で、そこらの四十代よりも体は絞れてるし、筋力もあるのではないかと思うが、ジムで自主的に鍛えていて、尚且つ若い政臣や鷹斗には敵わない。  今を生きる、まだ若く瑞々しい息子の姿を眩しいような気持ちで眺めていると「父さん、玄関閉めてからこいよ」と注意をされてしまった。 「……っ、ふふっ」  堪えきれなかった笑みが思わず唇からこぼれる。 鷹斗が側にいたのならば、きっと何事だろうかと訝しげな視線を向けていたに違いない。  ――なんか、いいな。  注意されたことではなく、家で待っていてくれる家族がいるということに涼正は幸せを感じていた。  さっきまで、昔を懐かしんでは、今との違いに頭を悩ませ、寂しさを感じていたというのに、これだけの事で忘れてしまえるのだから我ながら単純だ。  そっと一人で苦笑いを浮かべた涼正は、玄関の扉を閉めると、自身より広く逞しく成長した鷹斗の背中を追うようにリビングの扉を潜った。  リビングに入るとすぐに食欲をそそるカレーの匂いが涼正の鼻を擽った。キッチンの方では今朝と同じ様にエプロン姿の政臣がお玉を片手に鍋の中を覗き込んでいる。  ただ少し今朝と違うところは、エプロンの下が着崩した白のシャツと黒のスラックスに変わっているところだろうか。  コートを脱ぎ、その下のシャツの袖を捲りながら涼正は口を開いた。 「ただいま、政臣。……疲れてるのに、夕飯の支度をさせてごめんな」  せめて何か手伝えないかと、涼正は政臣の隣に並び、シンクの中にある洗い物に手を伸ばしたところでお玉を持った右手とは逆の手で追い払われてしまった。  諦めきれない涼正は他にすることがないかとキッチンを見渡すのだが、夕食の準備もカレーを器に盛るだけを残し、ほぼ終わり。しかも、チリ一つ落ちていないキッチンで涼正が出来ることなど殆んどと言っていいくらい残っていない。  その事実を眼前に突きつけられた涼正は、深く項垂れる。  これでは、まるで役に立たない父親ではないか。  深く考えまいと思った涼正だったが、もともと引き摺りやすい性格がここでも涼正の足を引っ張って、うまく気持ちを切り替えさせてくれない。  ため息こそ吐かないものの、中々浮上出来ない涼正を見るに見かねたのか。政臣がカレーの味を確かめながら、呟いた。 「好きでしてるから、気にしなくていい」  素っ気ない中に、ちゃんと気遣いが籠っている言葉だった。無愛想なようでいて、きちんと周りをみている政臣に驚くと同時に、向けられた心遣いにじんわりと胸が温まる。  体も心も温かで、この上ない幸せを感じていた涼正だったが、唐突に肩にかかった重みに「うわっ!?」と大声を上げ、前へと飛び退いた。 「そんなに驚くなよ、傷つくだろ。つーか、それよりこの酒どうすんの、父さん?」  振り向いた先。涼正の背後にいる鷹斗には傷付いた様子も、悪びれた様子もなく、涼正の指示を待つようにジッと切れ長の瞳で見詰めてくる。 「あ、あぁ、酒な。……そうだな、取り敢えず入る分だけ冷蔵庫にいれるか」  ジッとこちらを見る瞳に堪えきれず、視線を逸らしたところで冷蔵庫が目に入った涼正は、咄嗟にソレを指差していた。  言った手前、撤回するのも可笑しいのでビニールを持ち冷蔵庫前まで移動しようとしたところで後ろから引っ張られる感覚に足が止まった。 「了解。んじゃ、後は俺 がやっておくから、父さんは先に風呂に入って来いよ」  後ろを振り向くと、悪戯っぽく唇の端を上げた鷹斗の顔があり、その手が涼正の腕を掴んでいる。  追い越しざま、涼正の手の中のビニール袋を奪いとると涼正の背をリビングの外――風呂場に向かって押していく。 「ちょっ、待て。俺だって手伝いくらい……」 「疲れてんのにさせられるかよ。いいから、さっさと入ってこいって」  抗議の声も遮られ、力でも鷹斗に敵わない涼正は、結局引き摺られるようにして風呂場へと向かった。  鷹斗に押されるようにして歩き、押し込められたバスルーム内の洗面台の前で涼正は鏡と睨めっ子をしていた。鏡の向こう側では、上半身裸の情けない顔を浮かべた中年男性が一人、上腕二頭筋辺りを気にするように擦っている。 「……もう少し、鍛えた方がいいのかもな」  誰に聞かせるでもない涼正の小さな呟きが、洗面台の隣で回っている洗濯機の音に掻き消されていく。  ――鍛えたからといって鷹斗に勝てるとは限らないし、歳が歳だけに無理か……。  先程、鷹斗に力負けしたのがよほど悔しかったのだろう。涼正の瞳の中に一瞬リベンジの炎が立ち昇ったが、あっという間に散ってしまい諦めの色が浮かんだ。  冷静になって考えてみると、初めから勝ち目のない勝負だと気付いたのだ。  実りのない事を考えるよりも、風呂に入って明日の予定を考えた方がよほど有効な時間の使い方である。そう考えた涼正はカーキ色のスラックスを脱ぎ、最後に残った黒のトランクスも取り払うと、風呂場の扉を開けた。  途端、開けたところから涼正を取り巻くように湯気が溢れ、視界を白く塗り潰してしまう。しっとりと湿った空気が一糸纏わぬ涼正の肌の上を滑り、濡らしていく。  吸い込む空気は熱く、息苦しささえ感じる程だが、それが気持ちよかった。  暫くすると湯気もだいぶ薄れ、涼正はそれを見計らっていたかのように桶を使って湯を浴び、浴槽一杯に張られた湯へと身を沈めた。 「ふぅ……」  疲労が湯に溶けて出ていく気持ちの良さに、涼正の薄く開いた唇から息が漏れ出る。両手で掬った湯の色は乳白色で、鼻を近付けると仄かに甘い香りがした。  ――コレは、鷹斗の趣味だな。  自身を風呂場へと押し込めた張本人の姿が頭の中に浮かぶ。  ワイルドな見た目からは想像できないが、鷹斗は所謂〝匂いフェチ〟というやつで。香水にはじまり入浴剤や整髪料、挙げ句には洗濯洗剤まで拘る徹底ぶりで、他の匂いが交ざることを極端に嫌っていた。だから、シャンプーも石鹸も匂いが交じらないように、涼正と政臣は全て鷹斗と同じブランドのものを使っていた。  先程涼正が鼻を近付けかいだ入浴剤も、鷹斗が好みそうな匂いだったことを考えると、十中八九、コレを 入れたのは鷹斗の仕業だろう。  きっと、今頃は上機嫌で椅子に座り、涼正が風呂からあがるのを待っているに違いない。  風呂から上がった後に匂いを確認するように嗅がれるのは勘弁だが。ああでもない、こうでもない、と真剣に入浴剤やシャンプーを選ぶ鷹斗の姿を想像すると、意外に可愛いものがあり。涼正は、唇にゆるやかなカーブを浮かべた。  ――女の子達はこの事を知っているんだろうか。  白色の湯を両手で掬っていると、ふと、そんな考えが涼正の中に生まれた。  鷹斗は顔が良いし、ぶっきらぼうではあるが、その言葉は的確で人を揺さぶる何かがある。おまけに、成績もよく将来有望とあって、狙っている女子も少なくないはずだ。  けれども、『彼女だ』と付き合っている子を紹介されたのはもう九年も昔の話で。それ以来、紹介されたためしがないし。  どうやら、たった一人〝彼女だ〟と紹介した子とも数ヶ月しか続かなかったらしい。フリーに戻った後、約九年の間、彼に女の蔭が一度もなかったということはないだろう。時折帰りが遅くなった鷹斗の服や体から、甘ったるい女物の香水の匂いがしていたのを涼正は知っていた。  彼女達も、自分や政臣と同じ様に鷹斗に入浴剤を選んでもらっていたのだとしたら?  そんな嫉妬のようなものが頭の中を食い荒らしていく。  先程まで、家族しか知らない秘密を持っていることに優越感すら感じていたのに、他の人間が同じ様に知っていると考えた途端に容易く揺らいでしまい、不安になる。  鼻を擽っていた甘い香りも乳白色の湯の色も、他の誰かのために用意したことがあるものかもしれないと考えると色褪せて見え。涼正はそれを打ち消すように蛇口を捻り、新しく熱いお湯を浴槽に張り始めた。  ――浴槽から溢れるお湯と一緒に、こんな気持ちも洗い流してしまえばいい。  流れ出るお湯と薄らいでいく乳白色をぼうっと見つめながら、ひたすら熱い湯に身を浸す。もうもうと立ち昇る水蒸気を多く含んだ湯気が涼正から酸素を奪い、思考力を鈍らせていっても涼正はまだ湯から上がりたくなかった。  まともな思考力が残っているうちに上がっては、鷹斗と顔をあわせた時に気まずいだけではなく、『彼女達にもこんなことしてるのか?』と疑問をぶつけてしまうかもしれない。  ――のぼせる、とまではいかないが、せめてそういった事を考えなくてすむくらいには浸かっていよう。  そう涼正は決めていた。 しかし、それがいけなかった。  判断力の鈍った頭で自身の限界を正確に判断するのは、はっきりいって無理がある。 涼正が働きの鈍い頭でまずい、と感じて浴槽から身を上げた時にはすでに逆上せた後だった。  身体が意識とは関係なしにふらふらと左右に揺れ、風呂場のあちこちに身体をぶつけてしまいタイルの床にシャンプーのボトルや石鹸が転がる。  ――……外、出た方が……いい、な。  途切れそうになる意識をなんとか保ち明滅を繰り返す視界の中、脱衣所につながる扉へと足を向けた涼正だったが、その足元からぐにゃりと力が抜け、バランスを崩した身体が前へと倒れていく。  濡れた、固いタイルの床が目の前に迫っているというのに、涼正の身体は自身の濁った意識ではピクリとも動かせず、受け身もとれないまま大きな音を立てて倒れこんだ。  あちこちぶつけて痛いはずなのに、その痛覚さえも鈍い。  動かなければと思うのに、身体はピクリともせず、意識も徐々に遠退きつつある。  黒く塗り潰される前、狭い視界の中で涼正は脱衣所につながる扉が開けられ、必死な表情の政臣と鷹斗がこちらへ足早に近付く姿を見た気がした。 「……っ、父さん!?」 「おいっ、大丈夫か!?」  心配そう な息子二人の声を、辛うじて耳が拾ったところで涼正の意識はプツリと途切れた。

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